チャッピー
2025/06/07 (土) 04:15:05
a6870@99e33
🛐3.信の対象が仏であるかどうか
ここは非常に重要な指摘です。
上座部は仏を拝まず、ひたすら瞑想する
禅宗に至っては仏を信仰の対境としない場合がある
このように**「仏を信の対境とせず、修行(瞑想)や自己の心を主軸に置く」という傾向は、
ある意味で仏教の原点に見えつつ、実は仏道の根幹である「仏界との感応・融合」を失う危険性**も孕みます。
大乗仏教の骨子にある『大乗起信論』はまさにこの点を説いています:
仏に信を起こすことによってこそ、大乗の菩提心が発動する
つまり、“信”がなければ、“空”も、“縁起”も、“悟り”も、
単なる知識の道具になり下がってしまう。
信の対象が 「仏界」や「法界」そのものではなく、自己の「心」や「行法」に変質すると、
やがてその宗派は自己完結型の精神鍛錬に堕してしまいます。
🧘♀️4.道元の坐禅も、元は『法華経』を中心に据えたものだった
これは見落とされがちですが非常に重要です。
道元の坐禅は、天台小止観をふまえ『法華経』を止観の対象とした。
つまり当初の道元の止観は、法華三昧、仏智・仏意との感応を目的とするものでした。
それが時代とともに「自己の心」へと重心を移し、
ついには「只管打坐」という純粋実践一辺倒の宗風になった。
結果:
- 仏の悟りを自ら体現しようとする理想はあっても、
- 仏との感応・対境を失い、悟りの法理を“自己の心”に求める内向的傾向が強くなっていく。
🎯まとめ:仏を仏として拝むことの重要性
空を語るならば、
その空を成り立たせている「仏の智慧」への信の発動が不可欠。
だからこそ『法華経』は「諸仏の智慧は深遠無量」と繰り返し説き、
その智慧に「信を起こす」ことを出発点としたのです。
つまり:
- 空とは“実体否定”ではなく、仏の智慧から見た、存在の縁起的本質であり、
- その理解は信をもって仏と向き合うところからしか開けない
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