~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

『法介義塾』十限目 / 15

137 コメント
views
15
法介 2025/06/05 (木) 20:55:45

日蓮さんがその〝四依の菩薩〟と見ておられた世親や天台智顗による判別を後ほど詳しく紹介しますが、まずは佐倉氏の論説の続きの項もチャッピー解りやすく解説してくれ。

「因果関係」と「相依関係」の関係

このように、ナーガールジュナの縁起思想は仏教思想上の大きな問題のひとつとなっているものです。ところが、ナーガールジュナの「相依関係」としての縁起思想と、初期の「因果関係」としての縁起思想の間には、実は、以下に示すように、たいへん興味深い関係があります。

まず、十二支縁起は、その前半部分の

無明に縁って行があり、行に縁って識があり、…
において人間の悲苦の起こる原因の筋道を語っていますが、これは通常「順観」と呼ばれています。後半部分の
無明の滅によって行の滅があり、行滅によって識の滅があり、…
は、その悲苦の原因を取り除く筋道を語るもので、これは通常「逆観」と呼ばれています。初期の縁起思想はいつもこのように順観と逆観のペアで語られるところにそのひとつの特徴があります。それは、定型化された、
これがある故に、かれがある。これが生ずる故に、かれが生ずる。これがない故に、かれがない。これが滅する故に、かれが滅する。
でも同じことです。ここで使われている「これ」とか「かれ」というのは、ある固定物を指さして言っているものではなく、そこにいろいろなものを代入できるいわば数式の変数にあたるものです。したがって、これらをもっと簡略して表現すれば、
XがあるゆえにYがあり(順観)、XがないゆえにYがない(逆観)。
となりますが、ここで、「Xがある」をP、「Yがある」をQで置き換えて、論理の形式だけを見てみると、
もしPならばQであり、もしPでなければQでない。(論理式1)
(P->Q) & (-P->-Q)

となります。これが初期の縁起説の基本的な論理的構造です。ところが、この前半の順観の部分(もしPならばQである)は、論理的には「もしQでなければPでない」とまったく同じことなので、次のように、言い換えることができるのです。
もしQでなければPでなく、もしPでなければQでない。(論理式2)
(-Q->-P) & (-P->-Q)

そして、この論理式2の表現形式こそ、実は、ナーガールジュナが多用した彼に特徴的な表現なのです。たとえば、すでに上記に引用しましたが、ナーガールジュナは『空七十論』において、つぎのように述べています。
行がなければ無明も生じないし、それ(無明)がなければ行も生じない。(再出)
これはまさに、論理式2の表現形式に従っています。ところが、十二支縁起では、上記に引用したように、つぎのように言っていたのです。
無明によって行があり、…無明の滅によって行の滅があ[る]…(再出)
これは、あきらかに、論理式1の表現形式に従っています。つまり、一見ずいぶん異なっているように見える二つの縁起説は、実は、その論理的構造から見れば、両者はまったく同じことを語っていたのです。ナーガールジュナは「もしPならばQである」という代わりに「もしQでなければPでない」というふうに言い換えていただけなのです。
これは、形式論理学(命題論理学)では「対偶律」とよばれる基礎的な論理法則の一つです。この法則はたとえば(E.J.Lemmon,「Beginning Logic」より)次のように証明されます。

  1     (1) P->Q      A(仮定)
  2     (2) -Q        A(仮定)
  1,2   (3) -P    1,2 MTT(Modus tollendo tollens 負格法)
  1     (4) -Q->-P  2,3 CP(Conditional Proof 条件的証明) 
これは、もし「無明があれば行がある」を真理であると仮定すると、「行がなければ無明がない」も真理になることを証明するものです。つまり、この仮定の下で「行がない」を真理であると仮定すると「無明がない」という結論が帰結するために、この仮定の下では「行がなければ無明も生じない」が帰結する、というわけです。
この逆((-P->-Q) ならば P->Q)も否定の否定の法則(--P=P)を使って同様に証明されます。したがって、「もしPならばQである」と「もしQでなければPでない」は論理的に同値であり、どちらも同じことを言っていることになります。

ナーガールジュナは、初期の縁起の思想にひそむ、この論理的構造をよく理解していたに違いありません。だからこそ、彼は、初期縁起説の順観部分を「〜がなければ〜がない」というふうに彼独特の表現に言い替えたのだと思います。

もう一つ例をあげてみましょう。初期の縁起思想においては、因果関係を説明して、「原因があるから結果がある。原因がなければ、結果もない。」というふうな言い方をしています。ところが、ナーガールジュナは、これを

それ(結果)がないときは、原因なるものはない。(空七十論 6)
「これら」のものによって(結果が)生ずるとき、「これら」のものが原因であると、伝えられている。(結果が)生じないときには、「これら」のものがどうして原因となりうるであろうか。(中論 1:5)

また(結果を)生じないものが原因であるということはありえない。そして原因であることが成立しないならば、なにものにとって結果が起こるのであろうか。(中論 20:22)

などという言い方をするのです。なるほど、そう言われてみれば、そのとおりで、結果がなければ原因もないのであって、結果が原因に依存しているだけでなく、原因も結果に依存しているわけです。しかし、このように、「原因があるから結果がある」という言い方を「結果がなければ、原因もない」という言い方に置き換えることによって、因果関係さえも相互依存の縁起で説明し、よって、原因や結果が自立して存在しているのではないことを、ナーガールジュナは主張することができたわけです。

通報 ...