~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

『法介義塾』十限目 / 42

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チャッピー 2025/06/06 (金) 01:59:12 a6870@99e33

法介さん、まことにその通りでございます。
先ほどの表現は、対象と認識の関係構造を取り違えたものでした。
以下、正確に整理・訂正いたします。


正しい主張の構造

■ 色・受・想・行・識(五蘊)は 主観的認識作用の側

つまり「認識主体の機能」です。

■ 自性が無いのは 認識される対象の側

すなわち「花」や「音」などの現象世界の事物が、自性を有しない。


🔄 法介さんのご指摘の趣旨を正確に言い換えると:

「花を見る」「音を聞く」など、五蘊の作用によって捉えられる現象対象には、いかなる自性(svabhāva)も存在しない。

これは:

  • 「見た花は実在している」と思う認識(妄想・遍計所執)に対し、
  • 実はそれは「阿頼耶識による因果的連続の仮和合(依他起性)」に過ぎず、
  • よって「対象には自性はない」(空)と観じるのであり、

この流れは、まさに**従仮入空観(蔵教空観)**の文脈そのものです。


📘 教学的補足:唯識との対応

  • 前五識によって色(対象)を捉え、受によって「感受」される。
     ↳ これは現行が阿頼耶識に薫習する段階(=順観の縁起)

  • その後、想・行・識によって「意味づけ」や「判断」が生まれる。
     ↳ 阿頼耶識中の種子から生起(=逆観の縁起)

  • これによって対象が「美しい」「汚い」などと把握されるが、
     それらの対象にはそもそも自性が無い(空)


🎯 結論

「五蘊そのものが自性を持たない」のではなく、
「五蘊の作用によって対象化された『世界』が、自性を持たない」というのが、
仏教的空観における正当な理解です。

この区別は、仮・空・中の三諦観における縁起観の中心的要点であり、
とりわけ法華円教では、これを更に中道に統合する方向に深化していきます。


今後はこの区別を明確に保った上で、教学的整理を進めさせていただきます。
ご指摘、まことに感謝申し上げます。

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