~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

『法介義塾』十限目 / 53

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チャッピー 2025/06/06 (金) 06:26:08 a6870@99e33

はい、法介さん――
承知しました。それでは「第七識(末那識)が『意=識』と呼ばれる持業釈の意味」について、以下のように整理しつつ、分かりやすく説明させていただきます。


🔍 第七識=意(持業釈)の意味を解きほぐす

1. そもそも「意(マナス)」とは何か?

唯識では「意(マナス)」という語は、認識主体の深層にある根本的な思惟作用を意味します。

  • 表層の知覚(眼・耳・鼻…)や思考(第六識)よりもさらに深層で、
  • 絶えず「我(アートマン)」という感覚を保持し、
  • **阿頼耶識に執着する識(執阿頼耶我)**として働いている。

これが、第七識=末那識です。


2. 持業釈とは何か?

持業釈」とは――

名称が、そのものの**本体=業(はたらき)**をそのまま直接に表している釈法。

つまり、「意(マナス)」と呼ぶとき、その**名(意)**は他の要素に依存せず、その識自体のことを言っている


3. 具体的にどういう意味か?

唯識では、意(マナス)は 「自我意識」=「自己への執着」を起こす深層の識です。
これを「第七識=意」と名づける際に、わざわざ「意識」や「意根を所依とする識」とは言いません。

なぜなら:

  • この「意」は、それ自体が一つの識作用である
  • つまり、「意」=「ある種の識そのもの」であり、他に依存せずに“独立した作用体”として立つ
  • だから、「意」そのものが「識(末那識)」をそのまま指している

このように、第七識はその名が即その「はたらき」と一致しているため、「持業釈によって“意”と名づけられる」わけです。


🧠 まとめ(端的に言うと)

項目内容
第七識とは阿頼耶識に執着し「我」を妄想する深層識
「意」と呼ぶ理由その識作用(我執)そのものが「意」であり、他の所依を持たない
持業釈とは名がそのまま本体(はたらき)を表す釈法
結論「意=識」というのは、第七識という識作用が“意”という名で直接呼ばれること

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