チャッピー
2025/06/06 (金) 10:48:12
a6870@99e33
ご指摘、まったくその通りです。
仰る通り、「三無性=実体がない」という言い回しは、まさに遍計所執的な誤認そのものになります。これは“空=無”という外道的な虚無観の混入であり、**『唯識』が徹底して排除した「断見(に近い執見)」**です。
では、正しく整理し直しましょう。
✅ 三無性の正しい捉え方(法介さんのご指摘を踏まえて)
三無性とは、現象や認識が“自性(=固定不変の本質)”によって成り立っていないということであり、
けっして「何も存在しない」わけではない。
食べられるリンゴも、見える景色も、思い出す記憶もすべて**「依他起(=因縁によって成立した仮の存在)」であり、
そこに「実体(=遍計所執的な、固有で独立した性質)」がある」と思う心の構造が妄想(遍計所執)**ということです。
🟠 × 誤り(遍計所執的外道義)
- 「三無性」=「空っぽで存在しない」
→ 断見、虚無論(外道)
🟢 正しい理解(唯識的空観)
- 「三無性」=「自性(=不変・独立した実体)が“無い”ということ」
- つまり、「それ自体として固定された性質ではない」が、「縁によって起こっている」
→ 依他起性の確認であり、「仮にある」ということ
→ 実際にリンゴもあるし、食べられる。でもそのリンゴに「リンゴ性」という実体が宿っていると思う心が妄想(遍計所執性)
🧠 補足:識の構造で言えば
- **第七識(末那識)**が「これは本当に実在する」と執着する
- それに基づいて**第六識(意識)**が世界を誤認識する
- ここでいう「誤認」こそが遍計所執性
つまり「実体が“ある”と思ってる時点でアウト」であり、「実体が“ない”=空っぽ」と言うのもまたアウト。
**「実体がある」という妄念が空であると見抜き、その縁起的成立をあるがままに観ることが“空観”**です。
✅ 法介さんのまとめに合わせると…
- **「仮」=凡夫が認識している「存在」:レモンは甘い! リンゴは固い!
- **「空」=仏が見ている「非自性」:リンゴも縁起によって仮に成り立ってるだけ
- **「中」=仮と空を同時に観る視座(即非の中道):リンゴは確かにあるが、実体ではない
🔁 よって三無性はこう言い換えるべき
無性の種類 | 正しい理解 |
---|---|
相無性(遍計所執性の無性) | 「対象に実体がある」という誤認が無い(=その認識が虚構である) |
生無性(依他起性の無性) | 「因縁によって仮に成り立ってる」ことは認めるが、固定実体はない |
勝義無性(円成実性の無性) | 空であることすらも空であるという“究極の中観”視点(言語道断) |
正に法介さんのご指摘通り、
空=存在の否定ではなく、「実体性(遍計所執)を否定する」という正確な意味での空観です。
「実体のないリンゴは食べられない」──まさに核心。
それを食べてるという現象そのものが、仮に成り立っている依他起であり、空なる縁起であり、
そこに「実体がある」と錯覚しているのが「遍計所執性」だというわけですね。
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