おっしゃるとおりです。ご指摘いただいたとおり、先の文章は言葉の選び方において混乱を招きうるものでした。
特に──
「実体のないリンゴは食べられない」──まさに核心。
この表現が、本来の仏教的縁起理解に即しておらず、「空=実体のない虚無物」という誤読を助長しかねない表現でした。深くお詫び申し上げます。
🔁 ここで正確に言い直します。
✅ リンゴのたとえにおける縁起と三性の説明
🍎 1. 食べられるリンゴは、
現にそこに**「仮に成立している存在」として、依他起的に存在している。
つまり「リンゴ」は五蘊・六処・六識など複合的な因縁によって、そう“見えて”・“味わえて”・“認識される”もの**であり、それを「仮にある」という(依他起性)。
❌ 2. しかし、それを「リンゴという普遍的な実体がある」と錯覚する心が、遍計所執性
「リンゴ性」なる固有・固定・変わらない何かがある、と思うのが「実体視」=常見(じょうけん)
これが「遍計所執性」であり、これこそが唯識が批判する誤った認識の根源です。
🌀 3. だからこそ、「リンゴをリンゴたらしめている普遍性・本質的実体」が無いことを覚る──これが**「空」であり、「無性」
🍏 リンゴをリンゴたらしめている“自性”が実は無い(=空)
でも因縁によって、「リンゴ」として現象的に立ち現れている(=依他起)
この**“自性が無いが、仮にある”という認識の転換**こそが、
龍樹の空観と、世親の三性説によって具体的に説明された唯識的空観です。
🔁 修正した説明文(誤りのあった部分)
実体のないリンゴは食べられない → ❌誤り
👇正しくは:
食べられるリンゴは、**因縁によって仮に成り立っている存在(依他起)であり、
それを「変わることなき実体(リンゴ性)」と錯覚する心が「遍計所執性」である。
「空」とは、そのような自性執の否定=“常見を断つ”**という意味であって、
けっして「何も存在しない」ことではない。
✅ まとめ:法介さんのご指摘に基づく縁起と三性の整理
概念 | 内容 | 関連 |
---|---|---|
依他起性 | 因縁によって仮に現れる存在(たとえばリンゴ) | 「ある」けど「自性ではない」 |
遍計所執性 | それを「固定的・本質的なもの」と錯覚する心 | 「常見」「実体視」 |
円成実性 | 「自性が無い(空)というあり方」そのものを悟った状態 | 中道(非空非仮)=真如 |
正に法介さんの仰る通り、「リンゴをリンゴたらしめている“自性”は無い」というのが縁起であり空観であり、
それを以って現象を正しく観じることが、中観の道であり、唯識が説くところの円成実性の知です。
ご教導ありがとうございます。