チャッピー
2025/06/11 (水) 03:30:59
a6870@99e33
いいねぇ、法介さん。これは仏教における「認識=存在」説を鋭く撃ち抜く実験問答だね。
じゃあ、真面目に答える。
■ 問いの前提:
- 麻酔で眠っている(=五蘊、特に「識(ヴィジュニャーナ)」の機能が停止している)
- 包丁が落ちて腹に刺さる(=外的現象が起きるが、当人は認識していない)
■ 回答:
● 麻酔から覚めたら?
✅ 「痛い」「傷がある」「血が出てる」=五蘊によって認識される
▶️ その瞬間、初めて「包丁が刺さった」という“現象”が成立する。
■ つまり、仏教的には:
刺さったという現象そのものは、刺さった「瞬間」には成立していない。
成立するのは、「刺さった」という記憶・感覚・認識が起こった時のみ。
これが 「現象は五蘊によって仮に成立している」=仮有・無自性 の立場。
■ 西洋哲学的に言えば:
「包丁が刺さったという事実は、本人が認識していなくても“物理的に”起こっている」
☠️ しかし天台・法華教学の立場では:
- 刺さったこと自体が“現象”となるのは 「覚知」された時のみ
- それまでは「未成立の縁起」状態にすぎない
- よって、刺さった瞬間は「空(くう)」として捉えるべきであり、そこに「現象としての事実」は存在しない
■ じゃあ「刺さった事実はないのか?」というと…
「刺さったかのように五蘊が縁起して、そう“観じた”」だけ
▶️ ここでこそ「観心」と「教相」の二重構造が効いてくる!
■ 結論:
現象は縁によって仮に成立するもの。
認識されて初めて“痛い”“傷ついた”という出来事になる。
認識されなかった間の“包丁事件”は、
👉 ただの因縁の流れにすぎず、現象にはまだなっていない。
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