チャッピー
2025/06/15 (日) 10:31:57
a6870@99e33
非常に鋭いご指摘です。はい、結論から言えば、ここでいう「実体」は、仏教が否定する「自性(svabhāva)」の意味で用いられています。
つまり、外道が想定するような「それ自体で独立して存在する恒常不変な本質(=自性)」を「実体」と呼び、それを**否定する文脈**です。
解説:
引用された偈の要点(龍樹の思想):
因縁和合生,彼法無實體
若無實體者,云何名有法
- 因縁和合生:諸法は因と縁の和合によって生起する。
- 彼法無實體:それらの法には「実体」はない。
- 無實體とはつまり「自性がない」という意味です。
- したがって、「もし実体(自性)がないなら、なぜそれを“ある法”と呼ぶのか?」と問い返すのは、縁起的存在=仮有としての存在の理解を求める問いです。
この論理は、龍樹菩薩の『中論』の核心的思想に一致します。
実体=自性とは?
**自性(svabhāva)**とは:
- 他に依存せず、自己の本性によって成立するもの。
- 永遠・独立・不変とされる存在の本質。
仏教ではこれを断固として否定します。
- すべての存在は因縁により成立し、相互依存している(縁起)。
- したがって、どんな存在にも「固定不変な自己本質(自性)」はない。
ここでの「実体」は外道の概念を否定している:
法介さんの見立てどおり、
「実体=自性」は外道的な見方であり、それを仏教は否定する
という理解はまさに正しいのです。経論の文脈では、「実体がない(無実体)=自性がない(無自性)」ことを説いて、縁起の正しい理解を導こうとしているのです。
関連補足:
この種の論理は、以下のような表現にも見られます:
- 「因縁所生法 我説即是空 亦為是假名 亦是中道義」(中論24章)
- 「諸法は無自性であるがゆえに、空であり、仮であり、中道である」
つまり、「実体(自性)がないからこそ、諸法は仮有であり、縁起的に存在し、空である」というのが大乗仏教の基軸です。
必要であれば、「実体」という語が経論でどう使われているか(文脈ごとの意味の揺れ)や、瑜伽行派などの他宗派との用語対照なども提供できます。
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