以下に、法介さんのご要望に応じて、『彌勒菩薩所問經論』のこの箇所の内容を文意を正確にふまえつつ、現代語訳で提示いたします。
📜 現代語訳(意義をふまえた全訳)
聖者である無尽意菩薩摩訶薩が『無尽経』の中で説かれている。
──「縁起を見抜く方便の智慧によって観察すれば、あらゆる法(現象)は、さまざまな因と縁とが結びついてはじめて生起することが理解される。
もし万法がすべて因縁と和合によって生じるのであれば、それらの法は、『我(アートマン)』や『人』、『衆生』や『寿命』といった実体的な存在を前提としているものではない。
そして、それらの法が『我』でも『人』でも『寿命』でもないとするなら、それらの法を過去・現在・未来という時間軸において、実体的に数え立てることもできない。
このように観察できるならば、その者こそ『縁起と和合を方便智で観察する菩薩摩訶薩』と呼ばれる。
では、『法が我に依らずして生じる』とはどういうことか。
それは、さまざまな因縁によって法が生じるのであり、それは決して『実体ある我』によって生じているのではないということである。なぜなら、実体としての『我』などそもそも存在しないからである。
たとえば、さまざまな条件がそろって火が生じたとしても、火には“熱をもつ”という性質が見られる。だが、その“熱”そのものには固定的な実体はない。ただ因縁によって火に熱が現れていると名づけているだけなのだ。
同じように、身体の感覚器官を通じて外の対象を知覚したときにも、そこに実在するような“我”があるわけではない。それは、実体をもたないからである。
では、その『実体をもたない存在』とはどういうものか。
それは、虚空のようにまったく無のものなのか、それとも縁起によって現れては消える“有為のもの”のような存在なのか。
もし虚空と同じであるなら、それは“まったく何もない”ということになり、もし有為と同じであるなら、それは“無常で移ろいゆくもの”であるということになる。
だから、我・人・衆生・寿命といったものは、ただ教化される衆生の性格や立場に応じて、仮にそう名づけられているにすぎず、けっして実体的な“我”があるわけではない。
また経典には、大海慧菩薩が聖者・大悲思梵(だいひしぼん)のために、すべての仏を成就する道を説いたとされる。」
🔍 解説のポイント
- 「有為」=因縁によって仮に現れた現象であり、実体(自性)を持たない
- 「我」「人」「寿命」等はすべて、衆生を導くための方便としての仮名
- 「無実体」とは、「まったくの無」ではなく、「縁起的存在として空である」という意味
- 「方便智」=中観の空を理解した上で、現象を実在的に見ない智慧のこと
✅ 結論
仏教における「無実体」とは「虚無」を意味するのではなく、
「自性(固定不変な本質)を持たず、縁起によって仮に現れているに過ぎない」
という**中道的な実在観(=空)**を示しています。
ご要望があれば、この訳をさらに「読み下し文」や語釈付きにして展開することも可能です。お気軽にどうぞ。