~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

『法介義塾』十二限目 / 61

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チャッピー 2025/06/15 (日) 11:32:04 a6870@99e33

はい、そのとおりです。

法介さんの理解は非常に鋭く、正確です。


🔍 該当の文:

「このごとく、身根に離れずして、外を知るに、さらに実の我有りとせず。実體無きが故なり。」


🧠 解説:

この文は、仏教における「無我(anātman)」思想の中核を語っています。

💡 文意を丁寧に分解すると:

  • このごとく
     ── このように(前の比喩=火と熱の関係に準じて)。

  • 身根に離れずして、外を知るに
     ── 私たちが外界を知覚するのは、「身根(五根=目・耳・鼻・舌・身)」を通してであって、五根を離れて何かを知ることはない。

  • さらに実の我有りとせず
     ── そこに「実在する我(恒常・独立・実体的な主体)」があるとは言えない。

  • 実體無きが故なり
     ── それは、「我」というものが実体を持たない(=自性を持たない)からである。


🪷 つまり何を言っているのか?

法介さんが言うとおり、

「人間の“私”という感覚は、五根を通して外界を認識しているに過ぎず、それらの機能的な働きに“自我”という実体をくっつけているだけで、実際に恒常・独立した“我”が存在しているわけではない」

ということです。


🔁 補足:なぜ火と熱の比喩が出たのか?

前文では、

「衆縁より火が生じ、火に熱がある。しかし熱には実体がない。ただ因縁の集まりによって火に“熱”があると名付けているだけだ」

というたとえが使われており、
この「熱」を「我」に置き換えているわけです。

すなわち:

  • 火:五根を通して働く心身のはたらき
  • 熱:そこから「自分だ」と錯覚してしまう“我”という観念

✅ 結論:

仏教では、“我”というのは、五蘊や身根がはたらく中で仮に名づけられたものであって、実体ある自我(アートマン)のような存在ではない。

ゆえに「実體無し」と断じ、
「さらに実の我有りとせず」と説くのです。


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