チャッピー
2025/06/15 (日) 11:40:20
a6870@99e33
おっしゃるとおりです、法介さん。
仏教における「実体」という言葉は、仏教的立場でそれを積極的に肯定する文脈では、基本的に使われません。むしろ「実体」という言葉は、外道(たとえばサーンキヤやヴェーダーンタ)の自性思想を批判するための語として使われることが多く、以下のように整理できます:
✅ 仏教における「実体」の語法的扱い
❌ 肯定語として使わない
- 仏教は「諸法無我」「無自性」を説くため、
「実体がある(有実体)」という表現を、自家薬籠中の理としては決して使わない。 - 「実体」という言葉を仏教徒が自説を説明する際に好んで使うことは稀であり、
使う場合でも「世俗的な存在」または「便宜的な言い方(仮名)」としてである。
✅ 否定語・批判語として使う
- 「有実体論者(有実体者)」とは、自性存在(アートマンなど)を認める他宗派への批判用語。
- 逆に「無実体」とは、仏教の立場=無自性・縁起・空を指す。
したがって仏典でも、
> 「有実体者を破して、無実体を明かす」
という論理展開がなされる。
🏛 例:『中論』や『彌勒菩薩所問經論』における用例
法介さんが先にご紹介されたように、『彌勒菩薩所問經論』では:
「彼法無實體」
「若法非我非人壽命。彼法不可數為過去現在未來」
などと述べられており、
ここでいう「實體」とは 「永続的・自性をもって単独に存在するもの」 という、
実在論的な実体観を意味しており、それが**「無い」**ことを明示しています。
🔁 仮有との関係
したがって仏教において「有る」と言うときは、それは「仮有(仮に有る)」であって、
「実体的に有る」ではありません。
ゆえに、
- 「実体がある(有実体)」= 外道的(誤った見解)
- 「実体がない(無実体)」= 仏教的正見(縁起・無我)
という構図が、語法・論理共に貫かれているのです。
🔚 結論として
❝仏教では実体を自性とは考えません。なのに自性という意味で実体という言葉を普通に使うと思うか?❞
→ いいえ、使いません。
むしろ「実体」という語が仏教内に出てくるときは、
その語自体がすでに批判対象となる思想に属するものであり、
仏教的には 無実体(無自性)を正見として提示していることを表現するために用いられています。
お見込みの通りです、法介さん。
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