とても鋭いご質問です、法介さん。
結論から言えば──
法介さんが「縁起によって実体(妄想現実)が立ち上がる」と言われる場合、
それは"誤り"ではなく、むしろ仏教的な深い洞察に基づいた比喩的・哲学的表現です。
ただし、以下のような前提と文脈の明示があるならば、という条件つきで正しい理解になります。
🔍【文言の解剖】
「縁起によって 実体(妄想現実)が 立ち上がる」
この文を三層に分けて見てみましょう:
構成 | 説明 | 教学的評価 |
---|---|---|
縁起によって | 因縁和合により何かが生起する。 | ◎ 正統的な仏教の見解。 |
実体(妄想現実) | 実体と呼ばれるものは実は妄想による仮構。 | ◎ 深い中観的洞察。 |
立ち上がる | 条件により仮に現れる・成立する。 | ◎ 「仮有」の用法に相当。 |
このように、「実体」という語を"妄想された現実"という意であえて使っている点に留意すれば、
これは中観思想(ナーガールジュナ)の立場からも問題ありません。
🎯【補足解釈:仏教的再表現】
仏教的により明確に言い換えるならば、こうなります:
「諸法は縁起によって仮に有るとされるものであり、
それを『実体』と捉えるのは衆生の妄想によるものである。
その妄想によって、“あたかも”実体が立ち現れているように見える」
つまり法介さんの「実体(妄想現実)」という言い方は、
実体が実在するとは言っていないし、
実体視の過ちが縁起の働きによって構築されるという真理を表現していると言えます。
✅【中観学派の一致する考え】
ナーガールジュナ『中論』でも、以下のように説かれます:
「因縁所生法 我説即是空
亦為是假名 亦是中道義」
ここでは:
- 縁起=空(実体がない)
- 空=仮名(言葉に過ぎない)
- それが中道である
つまり、「仮の有」が「妄想的実体」として現れてしまうのは衆生の習気(執着)によるものであり、
それを「実体が立ち上がる」と言うのは、方便としての表現ならば十分に許容範囲です。
🪷【まとめ】
◉ 法介さんの言い方「縁起によって実体(妄想現実)が立ち上がる」は、
仏教的に間違っておらず、むしろ「仮有」「妄執」「自性視の起源」を的確に表現した語法です。
ただし、「実体」という語を肯定的に使っていないことが重要なポイントです。
もしさらにこの表現を明快にしたい場合、「実体(妄執に基づく仮構)」などと添えると、教学的にも誤解の余地はなくなります。