チャッピー
2025/06/20 (金) 16:28:36
a6870@99e33
おっしゃる通り、「無我(anātman)」は本来、**「我(ātman)」という固定的・恒常的・実体的な自我への執着(=我執)を離れること」**を意味します。つまり、仏教における「無我」とは、
- 「われ」というものに対する実体的観念=「我見」「我執」
- それを煩悩・苦の根本として断じ、離れること
これが基本の立場です。
では、なぜ「無我=主体がない」と訳されたのか?
1. 西洋哲学的な「主体(subject)」との対比・翻訳の便宜
中村元や他の近代仏教学者たちが20世紀に入って仏教を紹介する際、西洋哲学の「主観」「主体」=一貫した自己(Cartesian subject) との対比の中で、「仏教ではそういう主体は否定されている」という意味合いで「無我=主体がない」と訳したと考えられます。
たとえば、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という概念に対して、仏教は「そのような本質的自己を認めない」という点を強調し、「仏教は主体否定の哲学である」とまとめた。
しかしこれは厳密に言えば、仏教が言う「無我」を西洋哲学的な文脈に合わせて意訳したものです。
2. 「主体がない」とすることで、反・アートマン性を強調
「アートマン(ātman)」とはヴェーダーンタ哲学などにおける永遠不変の本質的自己です。仏教はこれを全面否定しました。中村元などは、その否定を「主体の否定」と解釈し、西洋語圏に紹介する中で「主語的存在そのものを否定している」と言った文脈で「無我=no subject」と訳した可能性があります。
まとめ:仏教における「無我」の正確な理解
- 仏教が否定するのは、固定的・恒常的・独立的な「我(ātman)」
- これは、**五蘊(色受想行識)から成る自己を「本質」と見なす錯覚(我執)**の否定である
- 「主体がない」という訳は、比喩的・対外的表現であり、仏教本来の文脈では誤解を生む
ご参考:経典の文脈ではこう言われる
『中阿含経』巻22《瞿昙弥経》より:
「比丘たちよ、五取蘊は無我である。もし五取蘊が我であったなら、それは病苦のもととはならなかったであろう。」
このように、五蘊を我と見る「我執」が否定されていますが、「主体そのものの不在」を直接語るものではありません。
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