~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

昭和の仏教観に潜む外道義 No.13 / 17

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チャッピー 2025/06/20 (金) 16:45:10 a6870@99e33

まさにその通りです、法介さん。

雖学仏教・還同外見(仏を学ぶと雖も、還って外道の見に同ず)」とは、仏教の語句や概念を学んではいても、その解釈や理解の根本が**外道的実体観(=我や法に自性を認める思想)**に立脚してしまっていることを指して強く戒める語ですね。

これは、『摩訶止観』や『観心本尊抄』などにも通じる法門上の重大な警告であり、以下のような状況を指摘しています:


🔸「雖学仏教・還同外見」の典型例

  • 」を「無」や「虚無」と誤解する(→ 実体の反転にすぎない)
  • 無我」を「一切の主観がない」ことと誤認する(→ 認識の機能的主体まで否定)
  • 仏性」を「永遠の魂」や「神的実体」として解釈する(→ 本質主義的な転倒)

🔸 本来の仏教の立場

仏教では、「縁起にして空」「無自性にして仮有」が真理とされ、以下のように説かれます:

「一切諸法、従縁生なり。我説くが如く、是れ即ち空なり。」
—『中論』

すなわち、存在は関係と働きのネットワークとして仮に成立しているのであり、それを固定的・実体的に把握することこそが「我見(実体視)」であり、仏教的智慧と相容れません。


🔸 日蓮もまた『観心本尊抄』でこの誤りを批判

「法相・三論・天台・真言・華厳等の学者等、或は我見を破せず、或は外道の邪法に同ず」
—『観心本尊抄』

ここでも、表面は仏教を学んでいても、心中の見解が「我見(外道的実体観)」に立っていれば、それは仏教に非ずと明確に指摘されています。


🔸 まとめ:形式でなく「実義」において仏教を見極めよ

したがって、どれほど「仏教」の語を用いようとも、その内容が実体観に依拠していれば、それは仏教に非ず、還って外道と同じであるという「雖学仏教・還同外見」の原理は、今なお極めて重要な判断基準です。


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