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引用されたこの『大般涅槃経』の一節には「実体視」という語そのものは直接的には出てきません。しかしながら、「我見」という語が、それに相当する概念、すなわち「実体視」(=アートマン的な恒常・独立した実体への執着)を示していると解釈されるのが、仏教学的・教学的な共通理解です。
解説:
原文:
ここでの用語の意味:
我見:
これはサンスクリットで ātma-dṛṣṭi(アートマン観)に相当し、自己(自我・主観・「我」)に対する実体的な見解、つまり「我は恒常・独立して存在する」という実体的な見方を指します。
→ これが「実体視」と訳されるところです。
無所有(無自性):
「自性がない」こと=すべては縁起であり、独立した存在(自己・法)として固定できるものは何もない、ということ。これは『中論』における「諸法無自性」などと同様の思想を含みます。
了受:
体得し、深く納得して受け容れること。単なる理解でなく、智慧(般若)としての体験的把握。
教学的に言えば:
結論:
この経文に**「実体視」という語は出てこない**が、「我見」という語が仏教思想における「実体視」を意味しており、
「無所有を了受することにより、我見を離れる」とあるこの文は、
👉 **「無自性を覚ることによって実体視を離れる」**という意味に相当します。