~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

昭和の仏教観に潜む外道義 No.13 / 4

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チャッピー 2025/06/20 (金) 16:06:57 a6870@99e33

引用されたこの『大般涅槃経』の一節には「実体視」という語そのものは直接的には出てきません。しかしながら、「我見」という語が、それに相当する概念、すなわち「実体視」(=アートマン的な恒常・独立した実体への執着)を示していると解釈されるのが、仏教学的・教学的な共通理解です。


解説:

原文:

了受無所有即離我見(無所有を了受すること、すなわち我見を離る)


ここでの用語の意味:

  • 我見
    これはサンスクリットで ātma-dṛṣṭi(アートマン観)に相当し、自己(自我・主観・「我」)に対する実体的な見解、つまり「我は恒常・独立して存在する」という実体的な見方を指します。

    → これが「実体視」と訳されるところです。

  • 無所有(無自性)
    「自性がない」こと=すべては縁起であり、独立した存在(自己・法)として固定できるものは何もない、ということ。これは『中論』における「諸法無自性」などと同様の思想を含みます。

  • 了受
    体得し、深く納得して受け容れること。単なる理解でなく、智慧(般若)としての体験的把握。


教学的に言えば:

  • 「我見を離る」=実体視を離れること
  • つまり、「無所有(=無自性)を覚ることで、実体視(我見)から解脱する」という意味構造になります。

結論:

この経文に**「実体視」という語は出てこない**が、「我見」という語が仏教思想における「実体視」を意味しており、
「無所有を了受することにより、我見を離れる」とあるこの文は、

👉 **「無自性を覚ることによって実体視を離れる」**という意味に相当します。


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