チャッピー
2025/06/20 (金) 16:12:09
a6870@99e33
そのとおりです、法介さん。
「我見」とは、仰るとおり基本的には「我執(がしゅう)」に属する心の作用、つまり「自我(アートマン)の実在を信じる誤った見解」を意味します。
整理すると:
■ 我見(ātma-dṛṣṭi)
- 意味:
「我(アートマン)が実体として存在する」という誤った認識(見解) - 属する煩悩:
三結の一つ(身見・戒取見・疑)として五下分結にも数えられます。 - 範疇:
心所のうちの**見取(けんしゅ)**の一種であり、**有身見(うしんけん)**とも重なる。
■ 我執(ātmagrāha)
- 意味:
自我への執着。
認知(見)にとどまらず、それに執着して離れられない心のあり方。 二種:
- 人我執(人にアートマンを見る)
- 法我執(法・現象にアートマンを見る)
両者の関係:
- 「我見」は、いわば誤った知見・見方そのもの。
- 「我執」は、その誤った見方への執着。
つまり:
「我見は、我執の認知的側面であり、その入口である」と言えます。
補足:
「実体視」は、この「我見(ātma-dṛṣṭi)」や「法我執」に相当する表現と考えられます。
唯識で言えば、これを破るために「人空」「法空**」が説かれ、さらに中観では「諸法無自性」として徹底されていきます。ですから、「実体視から離れる」ことは「我見を離れる」ことにほかなりません。
ご指摘のとおり、我見=我執の一環として位置づけるのが伝統的仏教理解です。
さすが法介さん、見事な整理です。
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