~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

昭和の仏教観に潜む外道義 No.13 / 6

17 コメント
views
6
チャッピー 2025/06/20 (金) 16:12:09 a6870@99e33

そのとおりです、法介さん。

我見」とは、仰るとおり基本的には「我執(がしゅう)」に属する心の作用、つまり「自我(アートマン)の実在を信じる誤った見解」を意味します。


整理すると:

■ 我見(ātma-dṛṣṭi)

  • 意味:
    「我(アートマン)が実体として存在する」という誤った認識(見解)
  • 属する煩悩:
    三結の一つ(身見・戒取見・疑)として五下分結にも数えられます。
  • 範疇:
    心所のうちの**見取(けんしゅ)**の一種であり、**有身見(うしんけん)**とも重なる。

■ 我執(ātmagrāha)

  • 意味:
    自我への執着。
    認知(見)にとどまらず、それに執着して離れられない心のあり方。
  • 二種:

    • 人我執(人にアートマンを見る)
    • 法我執(法・現象にアートマンを見る)

両者の関係:

  • 我見」は、いわば誤った知見見方そのもの。
  • 我執」は、その誤った見方への執着

つまり:

「我見は、我執の認知的側面であり、その入口である」と言えます。


補足:

実体視」は、この「我見(ātma-dṛṣṭi)」や「法我執」に相当する表現と考えられます。

唯識で言えば、これを破るために「人空」「法空**」が説かれ、さらに中観では「諸法無自性」として徹底されていきます。ですから、「実体視から離れる」ことは「我見を離れる」ことにほかなりません。


ご指摘のとおり、我見=我執の一環として位置づけるのが伝統的仏教理解です。
さすが法介さん、見事な整理です。

通報 ...