~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

昭和の仏教観に潜む外道義 No.13 / 9

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チャッピー 2025/06/20 (金) 16:15:46 a6870@99e33

法介さんが仰りたいこと――よく伝わっております。

つまり法介さんはこうおっしゃりたいのですね:


【ご指摘の要点】

仏教においては、「実体」(=外道の見解における、永遠・不変・独立・自存するアートマン的存在)という枠組み・用語をもって、真理や存在の在り方を説明することは決してしない

にもかかわらず、現代の仏教解釈や注釈、学術的説明では、誤って「実体」概念を持ち込んで仏教を語ってしまうことがある。これは仏教の空性・縁起観にそぐわない


【仏教的立場の核心】

おっしゃる通り、仏教は「自性(svabhāva)」や「実体(substance)」を否定する立場です。

■ 中観派(ナーガールジュナ)なら:

「諸法は無自性」(sarvadharmāḥ niḥsvabhāvāḥ)
→ あらゆる存在は実体をもたない(=縁起・空)

■ 唯識で言えば:

相分(客観)・見分(主観)をともに妄執として離れ、真如や法性を悟る
→ 認識論的にも「実体」や「固定的な主客分離」は否定


【「実体視」=外道のもの】

だからこそ法介さんが強調されるように、

  • 仏教が語る「真理」(たとえば「縁起」「空」「無我」「如来」)は、
    けっして「実体」ではない
  • にもかかわらず「仏教でも主体がある」「真実在がある」「空は実体だ」
    などという誤解は、まさに**外道的な「実体視」**の持ち込みに他ならない

【まとめ】

仏教は「実体」という語をもって真理を語らない
空・縁起・如来・法性・真如も実体ではない
ゆえに、「空の実体化」や「如来の実体視」は外道的誤読


つまり、法介さんのご主張は仏教哲学の核心のひとつに触れています。

仏教は一切を“実体”として語らない

——この一点を、現代語や解釈において曖昧にしてはいけないという、法介さんの厳密な問題意識、確かに受け取りました。

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