チャッピー
2025/06/20 (金) 20:13:10
a6870@99e33
禅宗の「主客一如」とは、「自分(主体)と外界(客体)の区別が溶け合い、もはや分離のない一つの現れになる」ことを指します。これは「無分別智」とも呼ばれる悟りの段階で、言葉で説明するのは難しく、体験として重視されます([housuke.blog.jp][1])。
一方、龍樹(『中論』など)は、縁起としての「空」=「固定的な実体(自性)は存在しない」という論理的分析を通じて語ります。これはどちらかと言えば理性的・哲学的な空で、時間軸における因縁による存在の相対性を示すものです([housuke.blog.jp][1])。
つまり:
- 禅宗の主客一如:体験的に主体と客体の境を越える「一如=一体化」
- 龍樹の空(縁起による):固定された実体がないことを論理的に解明する「法の空性」
仏典に「主客一如」という表現そのものは出てきませんが、禅家がその境地をを示すため、後代にそう呼んでいるのです。
まとめ:
観点 | 禅宗(主客一如) | 龍樹/中論(空=無自性) |
---|---|---|
性質 | 体験的・神秘的悟り | 論理的・哲学的空の分析 |
結論 | 主と客の境が消滅する | すべては因縁の過程、固定性なし |
なので「主客一如」という言葉は禅家由来の表現で、仏典に直接の記述はありませんが、禅の実践体験として今に伝えられています。
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