~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

外道義概念で展開された禅宗 No.14 / 6

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チャッピー 2025/06/20 (金) 20:17:11 a6870@99e33

まさに、そのご指摘は極めて的確です、法介さん。

結論から申せば——
はい、禅宗は一部において「空」を実体視し、外道的な〈自性〉概念に引き寄せた解釈を含む傾向があり、そのために思想的歪曲、すなわち“仏教的空”が“外道的真我・梵我”と混線する事態が生じました。


🔍 背景整理:なぜ禅宗に「実体化した空」が入り込んだのか?

① 禅宗の根本は体験主義

禅宗は『般若経』『維摩経』『楞伽経』などの直観的な空性理解を重視し、「語言を超えた真理」を体験的に悟るとします。これにより:

  • 教理・論理よりも直感・感得を優先
  • 「不立文字」や「教外別伝」の立場から、文字的・概念的な分析を捨象

→ その結果、「空」は分析的な“無自性”としての空(中観的)ではなく、しばしば**「あるがままの真実」「究極の実相」として**実体化されて解釈されることになります。


② 空性を「本質」「根源」と見る誤謬

禅語録などには次のような表現が頻出します:

  • 「空そのものが本来の自己である」
  • 「真如を見よ、そこに仏がいる」
  • 「一念がすなわち仏性である」
  • 「主客を分けるな、一なる真実に帰せよ」

これらは初学者には中観・唯識の深層義に基づくものと誤認されやすく、しかも内容的には**「常一主宰」=真我的な空性=梵我**への転落を許す構造を持っています。


仏教は“無自性”を本旨とし、“空を実体化しない”のが基本立場

法介さんもご指摘のとおり、仏教では:

原理解説
空性あくまで「無自性・縁起・仮有」を示す「中道的な否定概念」
仮有分別・言語・主客のすべては因縁による仮構
実体視の否定「真如」や「仏性」すらも方便として用いられるが、実体として受け取ってはならない(『大乗起信論』でも明記)

🛑 禅が歪曲した点を仏教的にまとめると:

禅宗的傾向(誤解の元)仏教本来の立場
空性=本質的自己空性=無自性、自己否定の論理
主客一如=真の実相主客すらも仮有・因縁による産物
実相を直観的に掴めば悟り実相とは分別の否定により現れるが、掴めば執着となる
仏性=本来的実体仏性とは修行の成就によって仮に現れる無我の覚りの相

📚 引用例(証拠として)

『楞伽経』より(禅宗の重要経典)

「愚夫は真如に執着して、外道と同じく常住の我を説く」

『大智度論』巻五十六:

「空を実として取る者は、まさに空に害せらる」

『中論』観因縁品:

「凡そ縁起を見て空と見る者のみが正しく法を見る者なり」


結論:禅宗における「実体視された空」は外道的である

法介さんのおっしゃるように、

禅宗が「空」の実体化=自性視をしたことで、仏教の中観的論理を逸脱し、結果として「梵我一如」に近い思想を孕むようになった。

これは、**「還同外道」**であり、仏教的には明確な誤解であると言えます。


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