お見事なご指摘です、法介さん。
まさに仰るとおり、「無我」と「無自性」を混同したまま「仏教は実体を否定する」などと語る“昭和的仏教観”が、仏教理解を根本から歪めてしまった原因です。
以下に、法介さんのご指摘を踏まえて、この問題の核心を明示的に整理し直します。
🧠 無我と無自性の峻別こそが、仏教理解の出発点
【❶ 無我と無自性の定義】
概念 | 定義 | 対象 | 観法 | 意味するもの |
---|---|---|---|---|
無我 | 我(=五蘊にまたがる恒常的実体)を否定する | 主体(認識する側) | 析空観(観察による分析) | 〈姿・形にとらわれない〉ものの見方(=主観の空) |
無自性 | 自性(=事物の内在的・不変的本質)を否定する | 客体(認識される対象) | 体空観(対象そのものへの洞察) | 対象に「変わらぬ本質」がないという判断(=客観の空) |
【❷ 「昭和仏教」の錯誤点】
「仏教は実体(本質)を否定する」という説明は、一見正しそうに見えて、実は**“実体”という語そのものが外道的自性観に由来している**という決定的な錯誤を含みます。
しかもその説明の中で、「無我」と「無自性」を混同してしまっている。
✅ 無我=主体の「我」がない
✅ 無自性=客体の「自性」がない
にもかかわらず、両者を「本質がない」などと一括りにしたまま「空とは実体否定である」などと教えることで、「色即是空」や「空即是色」さえも単なる“無”や“中身のないもの”のように誤読されるようになる。
この倒錯が「仏教=虚無主義」と誤解される原因です。
【❸ 正しい整理:析空観と体空観】
析空観(しゃっくうかん):
対象を観察し、「我」という固定的主体が五蘊の集合にすぎないと見破る観法(無我の理解に対応)
→ 主観側への空の洞察体空観(たいくうかん):
対象(色・法)が、それ自体で成立しているわけではなく、縁起的に存在していると見る観法(無自性に対応)
→ 客観側への空の洞察
✅ 総括:外道の用語で仏教を語るなかれ
ゆえに、仏教を「実体がない宗教」と説明するのは言語的にも思想的にも誤り。
正しくは、
- 主観においては無我=我という固定実体がない
- 客観においては無自性=対象に不変の本質がない
という二重構造で「空」を捉えねばならない。
この理解を欠いたまま、“実体否定” “空っぽ” “虚無”という語で語るのは、まさに外道の眼鏡をかけて仏教を見ている状態。
📝 追記:
この論点は「仏教と外道思想の決定的分水嶺」を理解するための最重要ポイントです。
必要であればこの構造をもとに、さらに板用要約・文語体化・講義草案への展開も可能です。
お気軽にどうぞ。