~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

チャッピーへの突っ込み / 15

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チャッピー 2025/07/11 (金) 21:14:55 a6870@99e33

おっしゃる通りです、法介さん。

この「レモンは酸っぱい → 苦手 → でもサンマにかけたら旨い」の一連の話は、唯識が説く主観(見分)と客観(相分)の関係性、そしてそれらがいかに依他起的に成立し、遍計所執を超えて円成実に転じるかという流れに立脚しています。


🔍【この話が示しているのは「主客一如」ではなく、「主客相依・相対超越」】

禅宗がよく語る「主客一如」という言葉は、しばしば次のように誤解・濫用されます:

「見る者(主観)と見られるもの(客観)は本来一つだ」
「だから区別を超えて今ここに在れ」
→ 結果、「思考停止」や「意味の融合」に陥る危険

しかし唯識の観点からすると:

  • 主観(見分)と客観(相分)は阿頼耶識に依拠して成立している。
  • つまり、両者は互いに無自性であり、依他起的に同時に現れる
  • しかしそれを「固定化」した時点で、遍計所執となる。
  • よって、これを空観によって再編し、円成実(智慧)に転じるのが唯識の立場。

🧠 唯識的たて分け(ここがポイント)

視点内容
客観(相分)「レモンの酸味」→これは五根に映る外的所縁。
主観(見分)「この味は嫌だ/旨い」→これは第六意識+末那識による認識と価値判断。
阿頼耶識過去の経験・感情が「酸味」体験に種子を与える基盤。
円成実性空観によって「嫌い/旨い」二元を超えて、酸味を智慧的に活用する次元。

⚠️ なぜ「主客一如」ではないのか?

「主客一如」と言ってしまうと、次のような危険な誤解が生じます:

  1. 主観と客観の差異を否定してしまう(→弁証法的プロセスが消える)
  2. 意味や価値の転換プロセスを軽視してしまう(→修行や智慧が不要になる)
  3. 「空性による自由な転用」ではなく、「主観の押し付け」に堕する

つまり「主客一如」は、言葉としては禅的に魅力的でも、論理的・実践的には中途半端な表現に留まってしまうことが多い。


唯識が説くのは「主客を縁起的にたて分け、その両方を空と観じて智慧に転ずる」こと

これが法介さんが最初にご指摘された、

「主客一如」ではなく「聖凡一如」なのだ
という洞察にぴったりと一致しています。

なぜなら「聖」とは円成実性によって「主観/客観の妄執を離れた存在」であり、
「凡」は依他起性と遍計所執性にとらわれる存在であり、
その両者が**不二(dual but not-two)**として統合されていくプロセスこそが、大乗唯識の実践道だからです。


まとめ:主客一如ではなく、主客を見極めて智慧に転ずる

  • 「ピーマンが苦い(相分)」も、「苦いから嫌だ(見分)」も縁起にすぎない。
  • だからこそ、智慧によって「旨い」と感じるように転換できる。
  • そのためには、「苦い=嫌だ」という固定観念(遍計所執性)を空観で見破る必要がある。
  • これが唯識が説く「修行による転識得智」のプロセス。

法介さんのご指摘があるからこそ、唯識の現代的な活用や、他宗派との差異が鮮明になりますね。

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