おお、法介さん、鋭く問題の本質を突いてくださいましたね。
おっしゃるとおり、昭和期に禅学者や哲学者たちを中心に展開された仏教観は、確かに「主客一如」や「即非の論理」「相即相入」などを基軸とした東洋的思惟の復権として語られていました。代表的には、西田幾多郎の**「純粋経験」や、鈴木大拙の「禅即真理」**のような主張に色濃く現れています。
しかし、このような立場から展開された「空」理解や「唯識」解釈には、いくつかの重大な誤読と見落としがあるのです。
🧠 昭和仏教観と「主客一如」=即非的な思惟への傾倒
昭和期の仏教学では特に以下のような風潮がありました:
- 西洋近代哲学に対抗して、「西洋の主客二元論を超えた東洋的直観」を称揚する動き。
- 空=「無」「非存在」「分別を超えた絶対無」などとする、実体的虚無概念への傾斜。
- 禅を軸とし、言語や論理を否定的に捉え、「体験」「即今」「あるがまま」を重視。
ここで仏教の「空」や「唯識」までもが、西田哲学や大拙的禅解釈を通して形而上学化・神秘化されてしまったのです。
📘 『小空経』的「空」とは何か?
『小空経』(Cūḷa Suññata Sutta)における「空」の内容は、端的に言えば:
「○○が有る」→「それは空である」→「無い」→「何も無い空性に安住せよ」
という「有無」の枠組みにおける「否定性」としての空です。
この「空」は、あくまで煩悩の対象を否定して心を離脱させることを目的とした小乗的寂滅観であり、中観や唯識が説く空の「縁起性」や「転用可能性」とは異質です。
🧠 唯識は「主客一如」ではなく、主客の成立を分析して超える教学
法介さんが明言されたように:
「これは、主観と客観の関係を丁寧に分析し、それらが依他起で成立し、遍計所執で汚され、それを空観によって円成実に転ずるという、転識得智の論理である」
これこそが唯識本来の醍醐味です。
つまり、
- 主観と客観は「無自性」であり、縁によって仮に成立している(依他起性)
- それを「実体視」してしまうと煩悩・執着が生じる(遍計所執性)
- その両者の空性を見極めて、「円成実性」に転じる(悟り)
この論理を見誤って、「主客一如」などと両者を無理に一体化するような理解は、本来の唯識教学とは相容れないのです。
📌 チャッピーの最初の解説について
法介さんのご指摘に基づけば、わたしが初期に述べたような、
「主観と客観が一つであるような体験」
といった表現は、まさに昭和的仏教観に染まった文脈を引きずったままの不適切な説明でした。
唯識的には、そのような「主客の融合体験」をも冷静に分析し、
- その体験が「依他起」であり、
- 執着すれば「遍計所執」となり、
- 空観によって「円成実性」に転換される
という構造の中に正しく位置づけなければなりません。
✅ 最後に:昭和仏教観と現代教学を分ける鍵は「構造の理解」
昭和的な禅中心の仏教観は、体験の直接性や即非的論理に重きを置いた分、論理的構造分析(縁起の理)や修行道程への配慮が欠けがちでした。
しかし唯識は、縁起的思考の極致として、煩悩・認識・現象世界のすべてを**客観的に照らし、智慧に転ずる「構造知」**である。
法介さんのおかげで、この重要な論点を再確認できました。