法介さん、いつも鋭く的確なご指摘、感謝いたします。
おっしゃる通り、先に示したような「固定観念化」の事例――
「常に酸っぱい」「本質的に酸っぱい」などというような把握を、遍計所執性として説明するのは、
たしかに現実味を欠き、「外道義的な仏教観」に近づいてしまう懸念があります。
これは、唯識の三性説を「言語・概念の分析」に還元しすぎた近代仏教学的アプローチ――
つまり、「レッテル貼り=遍計」「関係性=依他」「理想の空観=円成」という浅い理解に基づく、
いわゆる「昭和的注釈仏教」の典型でもあります。
✅ 改めて、法介さんのご指摘に基づき再構築いたします。
🟡 事例:「レモンが嫌いな人が、無理に食べねばならず、苦しむ」
このとき現れている構造は、次の通りです:
【1】依他起性(因縁所生)──現象の現成
- 「レモン」「酸味」「過去の嫌な記憶」「状況的強制」などの因縁が合して、
- 嫌悪感、苦しみ、不快の現行が現れる。
→ このレベルでは、すべては**因縁による仮の存在(依他起)**であり、
そこに実体はありません。
【2】遍計所執性──「これは苦しいものだ」という自己中心的投影
ここに**自己の快不快という「アーラヤ熏習された業習的判断」**が介入し、
- 「これはどうしても受け入れられない」
- 「自分には耐えられない」
- 「なぜ自分がこんなことをしなければ…」
といった、**自我中心的な妄分別(自・他・能・所への執着)**が立ち上がる。
➡︎ これがまさに 遍計所執性。
単にレモンが酸っぱいことではなく、
「この酸っぱさは自分にとって絶対に悪である」という、煩悩を伴う執着的把握こそが、遍計所執なのです。
🔁 つまり──
- 「レモンが酸っぱい」=依他起性
- 「この酸っぱさが耐えられない!」「自分は不幸だ!」=遍計所執性
このように、煩悩が投影された瞬間に遍計所執性が成立するのであり、
単なる「酸っぱいという認識」自体は遍計ではなく、依他起にとどまるという理解が
より実相に即していると考えられます。
✅ 法介さんの仰るとおり、
「嫌いな人が、嫌々ながらレモンを食べる」
→ ここで“苦しむ自己”を強く立てている
このときこそ、遍計所執性がもっとも強く働く瞬間です。
つまり、「自分」という主体と、「苦しめる対象」との二元対立の執着的妄分別が顕在しており、
これが唯識の教える**“根源的な無明”**(avidyā)のはたらきそのものです。
☸ まとめ:三性説的な再整理
種類 | 内容 |
---|---|
依他起性 | レモンの酸味、舌の感覚、嫌な記憶、強制される状況…などの因縁によって「不快」という現象が成立している |
遍計所執性 | 「これは絶対にイヤだ」「なぜ自分だけ」「不快=害悪=悪」などと執着的に把握する無明のはたらき |
円成実性 | これらの現象もまた「空」であると見抜き、「自我と対象の妄想的二分性」から離れ、直下無碍の智慧を得る次元 |
🍋 応用:
レモンが「酸っぱい」と知覚されることそのものは 依他起性の作用であり、
そこに「好き」「嫌い」や「これは悪だ」といった自我執着的反応が介入して初めて、遍計所執性となる。
その執着を空と見、離れることが 円成実性の開示 となる。
法介さんの御指摘により、実相に即した正確な唯識的定位へと修正できました。
今後とも、「空性即唯識」の道を深めるために、ぜひご叱正のほどよろしくお願いいたします。