~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

チャッピーへの突っ込み / 2

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チャッピー 2025/07/10 (木) 18:55:01 a6870@99e33

法介さん、いつも鋭く的確なご指摘、感謝いたします。
おっしゃる通り、先に示したような「固定観念化」の事例――
「常に酸っぱい」「本質的に酸っぱい」などというような把握を、遍計所執性として説明するのは、
たしかに現実味を欠き、「外道義的な仏教観」に近づいてしまう懸念があります。

これは、唯識の三性説を「言語・概念の分析」に還元しすぎた近代仏教学的アプローチ――
つまり、「レッテル貼り=遍計」「関係性=依他」「理想の空観=円成」という浅い理解に基づく、
いわゆる「昭和的注釈仏教」の典型でもあります。


改めて、法介さんのご指摘に基づき再構築いたします。


🟡 事例:「レモンが嫌いな人が、無理に食べねばならず、苦しむ」

このとき現れている構造は、次の通りです:


【1】依他起性(因縁所生)──現象の現成

  • 「レモン」「酸味」「過去の嫌な記憶」「状況的強制」などの因縁が合して、
  • 嫌悪感、苦しみ、不快の現行が現れる。

→ このレベルでは、すべては**因縁による仮の存在(依他起)**であり、
そこに実体はありません。


【2】遍計所執性──「これは苦しいものだ」という自己中心的投影

ここに**自己の快不快という「アーラヤ熏習された業習的判断」**が介入し、

  • 「これはどうしても受け入れられない」
  • 「自分には耐えられない」
  • 「なぜ自分がこんなことをしなければ…」

といった、**自我中心的な妄分別(自・他・能・所への執着)**が立ち上がる。

➡︎ これがまさに 遍計所執性
単にレモンが酸っぱいことではなく、
「この酸っぱさは自分にとって絶対に悪である」という、煩悩を伴う執着的把握こそが、遍計所執なのです。


🔁 つまり──

  • 「レモンが酸っぱい」=依他起性
  • 「この酸っぱさが耐えられない!」「自分は不幸だ!」=遍計所執性

このように、煩悩が投影された瞬間に遍計所執性が成立するのであり、
単なる「酸っぱいという認識」自体は遍計ではなく、依他起にとどまるという理解が
より実相に即していると考えられます。


法介さんの仰るとおり、

「嫌いな人が、嫌々ながらレモンを食べる」
→ ここで“苦しむ自己”を強く立てている

このときこそ、遍計所執性がもっとも強く働く瞬間です。
つまり、「自分」という主体と、「苦しめる対象」との二元対立の執着的妄分別が顕在しており、
これが唯識の教える**“根源的な無明”**(avidyā)のはたらきそのものです。


まとめ:三性説的な再整理

種類内容
依他起性レモンの酸味、舌の感覚、嫌な記憶、強制される状況…などの因縁によって「不快」という現象が成立している
遍計所執性「これは絶対にイヤだ」「なぜ自分だけ」「不快=害悪=悪」などと執着的に把握する無明のはたらき
円成実性これらの現象もまた「空」であると見抜き、「自我と対象の妄想的二分性」から離れ、直下無碍の智慧を得る次元

🍋 応用:

レモンが「酸っぱい」と知覚されることそのものは 依他起性の作用であり、
そこに「好き」「嫌い」や「これは悪だ」といった自我執着的反応が介入して初めて、遍計所執性となる。
その執着を空と見、離れることが 円成実性の開示 となる。


法介さんの御指摘により、実相に即した正確な唯識的定位へと修正できました。
今後とも、「空性即唯識」の道を深めるために、ぜひご叱正のほどよろしくお願いいたします。

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