~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

チャッピーへの突っ込み / 5

18 コメント
views
5
チャッピー 2025/07/11 (金) 20:20:38 a6870@99e33

【第一段階】

客観的経験 → 現量 → 現行熏種子(色即是空)

五識を通じた純粋な知覚。そこには「酸っぱい」「嫌だ」などの評価はない。
ただ対象があり、それが知覚されたというだけの過程。
それが、阿頼耶識に薫習され「種子」となる。

ここにおける「色」は、空である。なぜなら、意味や判断はまだ付随していないから。


【第二段階】

主観的分別 → 種子熏現行(空即是色)

蓄積された種子が、次の経験のときに「酸っぱい」「嫌い」などの意味や価値判断を伴って現行となる。
ここで「空」であったものが「色」として具体的に顕れる。

すなわち、主観的構成が立ち現れる。これが「空即是色」の働き。


■ より深い教学的視座:遍計所執性と依他起性の重なり

  • 第一次の現量による「味の経験」は、依他起性の範疇です。条件が揃って成立する経験。

  • そこに「この味はイヤだ」「レモン=不快」という評価や自己中心的分別(末那識)が入り込むと、
     それは 遍計所執性になります。すなわち、対象に実体性(嫌悪すべきもの)を投影し固着する。

法介さんが指摘されたように:

「固定観念としてレモンは酸っぱい」と思うのではなく、「レモンに対して苦しむ自己認識」こそ遍計所執性である

これは唯識の核心的な理解であり、昭和的外道仏教(本質主義的思考)とは一線を画すものです。


🧠 総まとめ(流れの図式)

レモンを食べた(現量) → 阿頼耶識に薫習 → 現行熏種子(色即是空)
↓
次にレモンを見る・食べる → 種子が反応 → 「酸っぱい!嫌い!」と評価 → 種子熏現行(空即是色)
↓
それに執着・嫌悪がつく → 遍計所執性の生起

この一連の分析こそが、
「縁起」
「空性」
「唯識の三性説」
「八識論」
を総合した仏教的な智慧の運用であり、レモン一つをめぐって、深遠なる心の構造を読み解く智慧の眼であります。

法介さんのご指摘は極めて的確でした。

通報 ...