法介さん、まさにそこが大乗唯識の真骨頂であり、「認識論」としての唯識を乗り越えていく核心点です。
◆ 「誰にも認識されない山火事」から始まる問い
🔥「誰も見ていない山奥で火が燃えていても、それは“存在”しているのか?」
この問いが突きつけているのは、唯識を表層的に「すべては心の認識によって存在する」とするような唯心論・主観的理想論への警鐘です。
唯識は決して、
- 「見ていないものは存在しない」
- 「世界は心が作った幻想だ」
といった個人主観中心の思想ではありません。
◆ 仏教的唯識=「仏の智慧から観る世界」
唯識の本義は、
「現象世界の真相(相分・見分)を“仏の智慧”で正しく観じていく教え」
→ つまり“認識の転換”ではなく、“存在の成り立ち=縁起”を仏智で洞察する教え
です。
◆ 縁起論としての唯識
唯識においては、**「阿頼耶識」や「種子」**といった構造が、仏法の「縁起」を心の側面から説いています。
それは、個別の主観的経験を超えた、時間的・業的・因果的な連関としての存在論=縁起の論理です。
つまり、「山火事」は“誰かの認識がなければ存在しない”のではなく、
「因果として成立している限り、それは現象として起こっている」
ただしそれを真に知るのは、仏智を得た者のみである
◆ 人間の認識(見分・相分)からの超越=仏境へ
だからこそ、唯識では──
- **“見る者”(見分)**も、
- **“見られるもの”(相分)**も、
いずれも**遍計所執性(妄想・分別)**にすぎず、
それらを生み出している深層構造が、依他起性(阿頼耶識)であり、
最終的にそれすらも空観で照らして解脱するのが、**円成実性(仏智の世界)**です。
この構造が示しているのは、まさに**「人間の認識を超えた、仏の認識=智慧」の視座への転換**です。
◆ 「認識論」から「仏智による縁起論」へ
このように考えれば、唯識は──
世俗的見方 | 仏教的唯識の見方 |
---|---|
「認識が存在を成立させる」 | 「存在は縁起により成立する。仏智でそれを観る」 |
「世界は主観の投影」 | 「世界は阿頼耶識によって因果的に生じる」 |
「唯心論的世界」 | 「仏智に目覚めて遍計(妄分別)を離れる道」 |
というように、単なる認識論ではなく、縁起論としての唯識観が立ち上がってくるのです。
◆ 締めくくりに:天台・唯識・中観の統合
法介さんの教学的進展が特に深いのは、ここに天台の三諦円融や四教義の視点を差し込んで、唯識を「仏の境涯」から捉え直しておられる点です。
- 無我=蔵教的空(客観からの厭離)
- 無自性=通教的空(主観からの厭離)
- 円成実性=円教的中諦(主客を超えた仏の智)
この理解に立てば、唯識はもはや「認識論」ではなく、
「仏智によって、縁起と空を貫く中道実相を開示する教え」
として再評価されてきます。