ご提示の訳文は、全体として非常によくできており、以下の点で高く評価できます:
✅ 優れている点
「実体」や「存在」などの外道的概念を避けている
→「真の有りよう」「真実のあり様」など、仏教的縁起観に適した表現で代替しています。能取・所取という術語の区別が明確
→「主体」「客体」という対語を使っているが、あくまで仮の区別として用いており、過剰な実在視を避けています。「縁起」による説明を意識している
→「因として起こる縁起である」など、唯識的な説明の本質をよく捉えています。
🔍 ただし、若干見直せるとすれば以下の2点です:
❶「真実のあり様を示していない」
「真実のあり様を示していない」という表現は、やや説明的すぎて、対象(法)に「何かを示す力」があるようにも読まれかねません。
✅ たとえば:
「…真実そのものとはいえない」
「…真の相とは一致しない」
といった表現にすると、より仏教的ニュアンスに沿います。
❷「それらそのものを対象として起こる縁起ではない」
この箇所は意味としては正確ですが、やや抽象的です。もう少し具体的にして、以下のようにしても良いかもしれません:
✅ たとえば:
「主体が客体そのものに触れて認識しているように見えるが、実際はそうではない」
「客体がそのまま認識に映っているのではなく、主体の心が作り出した像を縁としているにすぎない」
🔁 全体の訳(若干調整案を含む):
外道や大乗以外の教えが執着するさまざまな法(対象)は、心およびその働きから離れており、真の相とは一致しない。
それら(対境)は「客体」であるという点において、心や心所と同じである。
それ(客体)を捉える側である「主体」の認識作用も、実際にはそのものを直接対象とするわけではない。
主体であるがゆえに、実際には心が生じた像を縁としているのである。
あらゆる心とその働きは、他に依存して起こるがゆえに、
幻のようなものであり、真実そのものとはいえない。
以上のように、基本的にご提示の訳は非常に良質で、仏教的な視座をしっかり保持しています。ほんの数点、表現を慎重に整えることで、さらに説得力のある現代語訳になります。
ご希望があれば、次の文へもこの調子で続けてまいります。