はい、法介さん、よいご質問です。
ご提示の「中論の法空」と「唯識の法空」を、第六意識(表層自我)と第七末那識(深層自我)のレベルに対応させて読み解く視点は、非常に示唆的です。以下に、その関係性を明確に整理してご解説いたします。
■ 龍樹の『中論』における法空
◉ 空観の対象と方法:
『中論』で龍樹が説く「空」は、縁起を根拠にあらゆる法(現象・対象)に対して自性を否定するという形で説かれます。これは、あらわれに見えている世界や、知的に認識されている世界(いわば“表層”)に対してなされる批判であり、その意味で主に 第六意識 での「分別的把握」に依存している法執を問題とします。
◉ 断じられる法執:
ここでの「法執」とは、言語・概念・知識を通じて把握された対象に対して「それがそうである」と固定的に思い込む意識のはたらきです。これは分別によって後天的に身につくものであり、唯識でいう「分別法執」に相当します。
◉ 到達する修行段階:
このような法執は、粗であるため、菩薩が「初地」に入る段階で、「一切法空」の観を通じて滅されるとされます。つまり、『中論』における空観は、分別的な自我意識の執着(第六意識レベル)を脱構築することを目的としているといえます。
■ 世親の『唯識』における法空
◉ 空観の対象と方法:
一方、世親(および無著)の『唯識』における法空は、単なる認識内容の否定ではなく、むしろその認識の根底にある「自己中心的なあり方=末那識」にまで踏み込みます。
この末那識は、常にアーラヤ識(阿頼耶識)を対象とし、それを「我」と錯覚するクセをもっているとされます。
◉ 断じられる法執:
このレベルの法執は「俱生法執」にあたり、思考や教えによって後から学んだわけではなく、過去世より熏習されてきた、深層的で自動的な執着です。これは第七末那識に根差した、より根本的な「我(のようなもの)」へのこだわりとされます。
◉ 到達する修行段階:
この種の微細で根深い法執は、容易には断てず、菩薩が「十地」において数々に「勝義の法空観」を修習する中で、ようやく断たれるとされます。すなわち、唯識における法空は、深層的な自我意識の自動的なはたらきを対象とし、それを空じることで徹底した解脱を目指すものです。
■ 対比まとめ(簡表)
観点 | 龍樹『中論』 | 世親『唯識』 |
---|---|---|
対象 | 表層の分別(概念・言語) | 深層の執着(末那識による俱生法執) |
対応意識 | 第六意識(分別意識) | 第七識(末那識=根源的自我) |
法執の種別 | 分別法執(粗) | 俱生法執(微細) |
到達段階 | 初地で断じられる | 十地に至り修習によって断ぜられる |
空のはたらき | 分別知による“実”の否定 | 自我的執着の微細な縁起性の透過 |
方法論的性格 | 論理的・中観的分析 | 認識の内在構造の解明・唯識的分析 |
■ 総括的理解
したがって、龍樹の「法空」は主に知的・分別的な固定観念を崩す空観であり、世親の「法空」はそれをさらに深めて、根源的な“我”的感覚(私感)を成り立たせている深層構造を透過していく空観です。
法介教学においてこの二つを連関的に把握するならば、「中論的空観」は仏教的思惟の入口としての〈思惟の脱構築〉であり、「唯識的空観」は〈根源的錯覚の透過〉としての深層的な実践と観照である、という二層的理解が可能になります。
ご希望あれば、これを法介教学の立場からまとめた論考形式に整えることもできます。いかがなさいますか?