かしこまりました。以下に「法介教学」の視座から、龍樹『中論』と世親『唯識』における「法空」の二層的理解を一貫した論考として整えました。
法介教学における「法空」の二層的解釈──『中論』と『唯識』を架橋する視座
はじめに
仏教思想において「法空」は中心的な概念であり、その解釈と実践の方法には、時代や宗派を超えて多様な展開がある。法介教学は、天台教学と法華経義を基盤としつつも、龍樹・世親・智顗といった古典的論者の思想を、現代的文脈に照射し直すことを志向する。その立場から見たとき、「法空」は単なる理論的な教義ではなく、「覚りの智慧」へと至る実践的な二重の観照であると捉えることができる。
本稿では、龍樹『中論』と世親『唯識』における「法空」の理解を、それぞれの観点から明確に対比しつつ、それらがいかに補完的であるかを示し、「分別法執」と「俱生法執」の二段階的克服として統合的に捉える視座を提示する。
一.龍樹『中論』における法空──分別の脱構築
龍樹の『中論』では、「一切法空」という視座が中心的に説かれる。これは、すべての法(事物・出来事・対象)に自性がない、すなわちそれ自体として成立するものはない、という立場である。この「空」の思想は、縁起の理に依拠して、対象に対する概念的な分別・固定的把握を打破しようとするものである。
このとき対象となるのは、主に 第六意識 において形成される「知的・概念的な構造」である。すなわち、言語や論理によって「これはこういうものだ」と認識し、把握しようとする心の働きである。このような執着は、**「分別法執」**と呼ばれ、いわば後天的に身についた観念であるため、比較的粗であり、初地に入る菩薩が「法空の観」を実践することで断じられるとされる。
法介教学ではこの段階を「表層自我の脱構築」と捉える。すなわち、学問的知識や社会的価値観などによって形成された“私”の思考パターンや、対世界への態度を吟味・透過し、そこに絶対性を見出さない智慧を育む段階である。
二.世親『唯識』における法空──根本執着の透過
一方、世親(および無著)の『唯識』では、「法空」はより深層的なレベルにおいて語られる。それは、単なる分別によって形成された「知の執着」ではなく、そもそも認識主体そのものが持つ「私」という感覚=末那識に起因する自己中心性への執着に対応する。
この末那識は、常に第八識(阿頼耶識)を対象とし、自らが「我」であるかのように錯覚するという傾向を持つ。この錯覚は、思考によって得たものではなく、過去世より熏習されてきた無始以来のクセであり、**「俱生法執」**と呼ばれる。それは常に「自心の相」を伴って現れ、「私」という感覚を自動的に維持しようとする。
この法執は非常に微細であるため、簡単には断つことができず、菩薩は十地において数々に「勝義の法空観」を修習し、ようやく克服する段階に至る。法介教学においてこの段階は、「深層自我の透過と解体」と位置づけられ、真の意味での仏道完成の核心とされる。
三.法介教学の立場からの統合的理解
このように、『中論』と『唯識』は一見異なる立場にあるように見えるが、法介教学においてはむしろこれを「二段階の法空観」として捉えることで、実践における一貫した道筋が浮かび上がる。
- 第六意識レベルにおける「分別法執」は、言語・概念によって構成された自己認識と対象認識への執着であり、これは龍樹の「空観」によって相対化される。
- 第七末那識レベルにおける「俱生法執」は、根源的な“私”感覚への無意識的執着であり、これは世親の「唯識観」によって透過される。
この二つの法執の克服は、単なる思索ではなく、実践的修行として具体的に段階を踏むべき道である。それは、「分別の智慧」から「無分別の智慧」へと深化する動的過程であり、仏法が単なる知識ではなく、「生の変容」として働くゆえんでもある。
結語
仏教の核心である「空」の理解は、単に「無」とか「否定」として捉えるべきものではなく、「縁起によって成り立つ現象のありよう」を直観的・構造的に洞察する働きである。法介教学は、龍樹と世親という二人の巨匠の思想を、そのまま抽象的に並列させるのではなく、それらを「分別の脱構築」と「根源的執着の透過」という二段階の修道として統合的に捉えることで、現代においてもなお生きた智慧としての仏法を照らし出そうとする。