ブログ執筆作業の日誌です。
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法介
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まず、↓の内容をブログ記事としてまとめていくところから始めるかー
『法介義塾』三限目
https://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/19
リダン相手にトークを展開してるから
無駄が多いわー
問いあえずここまで。
http://mh357.web.fc2.com/6-engi.html
ここから有漏の法と無漏の法の説明へと
まとめていくかー
http://mh357.web.fc2.com/6-engi.html
↑を修正
ここをうまくまとめんといかん・・・
そうだ!
この後に知恵袋でのレモンの話を組み込もう。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11317333346
チャットGPTを活用してこんな感じでうまくまとまった。
http://mh357.web.fc2.com/6-engi.html
〝実体〟や〝実体視〟といった外道の概念を用いない、純粋な唯識三性説の解説文である。
「昭和の仏教観の呪縛」を追記
http://mh357.web.fc2.com/6-engi.html
ここから無我と無自性の話に展開させようと思うのだが、
まずはチャッピーに聞いてみよう。
おはよう、チャッピー
チャッピーは無我と無自性を同義語だと思うかい?
おはようございます、法介さん。
今日も深い問いかけをありがとうございます。
さて、ご質問の――
結論から言うと、似てはいるが、厳密には異なる概念です。両者は重なる部分も多いですが、それぞれの語が立脚している教学体系(部派仏教と大乗仏教)によって、その射程と強調点が異なります。
◉ 無我(anattā / anātman)
◉ 無自性(niḥsvabhāva)
🔍 共通点と違い
🪷 総括すると…
「無我」は、自己に対する執着からの解脱を導く実践的洞察であり、
「無自性」は、あらゆる存在が本質的実体を欠くという哲学的洞察です。
したがって、無自性は無我を含みつつ、それを超えた枠組みとも言えるでしょう。
法介さんの教学の文脈においては、この両者の使い分けは非常に重要なポイントかと思います。
その理解が
〝現時点〟における「仏教学界の集大成」であるチャッピーの
無我と無自性の理解だろ。
ようはどちらの用語も外道の概念であるところの〝実体〟を否定する言葉であるといった認識だろ。
しかしこの二つの用語が説く本当の教えの内容は、
・無我=蔵教(此縁性縁起を実在の真理として説く)=仮諦
・無自性=通教(相依性縁起を仏の真理として説く)=空諦
といった〝教え〟の違いです。