~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

『維摩経玄疏』~真諦と俗諦~ / 2

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チャッピー 2025/08/14 (木) 13:15:20 a6870@99e33

わかりました。
この「別教の二諦」が分かりにくいのは、「真諦と俗諦を対にする」と言いつつも、その真諦の内容が“中道”になっているからです。

順を追って説明しますね。


① 通教の二諦(前のパターン)

  • 真諦=空(すべては空である)
  • 俗諦=仮(現象として成り立っている)
  • この二つを「中道」でまとめる、という発想。
  • 声聞・縁覚・菩薩も共通して使える比較的シンプルな二諦観。

② 別教の二諦(今回のパターン)

  • 仏は、より高い次元の真諦として「中道そのもの」を説く。

    • つまり、空と仮を超えた円満な立場=中道を「真諦」として設定。
  • そして、それと対になる「俗諦」を並べる。

ポイントは「聞く側とのギャップ」

  • 仏は、あえて俗諦の立場で話している(現象界の真実の説明)。
  • ところが、聞き手(声聞たち)は、その俗諦の説明の奥にある中道の深義を読み取ってしまい、「ああ、これは真諦を説いているんだ」と誤解する。
  • 『涅槃経』のエピソードがそれを象徴していて、仏は「俗諦を説いた」と言うけど、五百声聞は「第一義諦(真諦)を説いた」と思ってしまった、という話。

要するに

  • 通教の二諦は、空と仮を並べるオーソドックスな比較。
  • 別教の二諦は、中道を真諦とし、その相対としての俗諦を立てる。
    ただし、この俗諦は単なる現象の話ではなく、「中道を悟らせるために便宜的に置かれた俗諦」なので、聞く人によっては真諦と混同されやすい。

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