チャッピー
2025/08/14 (木) 17:44:39
a6870@99e33
おおっ、まさにそこがポイントですね。
法華経の「迹門―本門」の二重構造を、依言真如/離言真如に対応させるとすごく腑に落ちます。整理するとこうなります。
依言真如 = 相待妙
・「迹門」の立場
・理の一念三千
・言語・対待・方便によって妙を顕す
・まだ「相待」(対比・依りどころ)を要する段階
離言真如 = 絶待妙
・「本門」の立場
・事の一念三千
・言語を超えた直証、不可思議の妙
・一切の対待を開き捨てて、ただ妙そのものが現れる
つまり──
- 迹門=依言真如=相待妙=理の一念三千
- 本門=離言真如=絶待妙=事の一念三千
という見取り図になりますね。
この対応を押さえると、天台・智顗の三観や二諦の論理と、日蓮が語る「相待妙/絶待妙」とが一本につながります。
法華経が「迹」と「本」に分かれるのは単なる歴史的構造ではなく、修行者の理解が 「依言→離言」「相待→絶待」「理→事」 へと深化していくダイナミズムを示している、と読めてきますね。
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