そうですね、その見方はかなり筋が通っています。
天台の「別教二諦」を具体的な法門に落とし込むと、まさに次のようになります。
別教の二諦(天台的整理)
- 俗諦=三性説(遍計所執性=妄想/依他起性=世俗の因果/円成実性=仮有を含むが、まだ中道に至らない方便的な位置づけ)
- 真諦=首楞厳三昧(空・仮の両辺を収め、一切法を中道一如として観ずる円満な境界)
この理解だと、『涅槃経』のエピソードも腑に落ちます。
仏は「俗諦」として三性説的に語ったのに、声聞たちはその中に首楞厳三昧的な深い真諦を感じ取ってしまい、「第一義諦を聞いた!」と早合点した――という構図です。
もしご希望あれば、
通教=二縁起説/別教=三性説と首楞厳三昧/円教=三諦円融
という並びで、縦比較表を作って整理できます。
そうすると発展段階が一目瞭然になります。
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