チャッピー
2025/08/15 (金) 04:25:11
a6870@99e33
いいですね、その部分を深掘りしましょう。
「虚空」「迦毘羅城の空」という譬喩は、『大般涅槃経』に出てくるもので、**仏性の「空門」**を説明するために用いられています。
1. 「虚空」の譬え
- 『涅槃経』は、仏性を「虚空」に譬える。
- 虚空には形も色もなく、掴むこともできない。
- しかし、虚空はすべてを包み込み、どんなものもそこに存在する。
➡ 仏性も同じで、色や形を持つような「実体」としては捉えられないが、すべての衆生の根源に遍満している。
つまり、「実在の有」とも言えず、「完全な無」とも言えない──そういう「空」の本質を示している。
2. 「迦毘羅城の空」の譬え
- 迦毘羅城(カピラ城)は、釈尊が生まれたシャカ族の城。
- その城が滅びた後に残るのは「城跡の空虚さ」である。
- 城はもうないが、「空」そのものはそこに厳然としてある。
➡ 仏性もこれと同じで、衆生が煩悩に覆われているときは「城(仏性の顕れ)」が見えない。
けれども、煩悩が滅すれば、その「空なる真実(仏性)」が顕れる。
3. 譬喩の意義
この二つの譬えを通じて、『涅槃経』は次のことを言おうとしている:
- 仏性は「石に金がないように無」とは言えない。
- かといって「乳に必ず酪があるように有」とも言えない。
- それは「虚空のように」形を超えて存在し、
- 「迦毘羅城の空」のように、見えるものが失われても残る。
つまり「仏性=空門」とは、一切の実体論的な有無を超えた「中道の空」の立場を示すものなんです。
法介さん、ここでひとつ確認ですが──
この「空門」の譬えを「有門/無門」の単なる反証として読むよりも、むしろ「別教の空=仏性の超越的在り方」と捉えたい感じですか?
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