はい、ここは智顗が『維摩経玄疏』で「四門の料簡」を説き始める部分ですね。原文を現代語に訳しつつ解説してみます。
原文の要点と現代語訳
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一に略して四門の相を弁じ、二に正しく四門より体に入ることを明かし、三に悉檀より四門の教えを起こすことを明かす。
第一に四門の相を略して弁ずるとは──「門」とは能く通ずることを義とする。仏の教えが示そうとするところは、まさに四句法であり、これによって修行者を真性・実相の体へと通じさせる。ゆえに「門」と名づけるのである。
もし外道が邪な因縁・無因縁をもって四句を説けば、この四句それぞれに依って四種の邪理を見出す。その結果、十四の難問・六十二見を生じ、さまざまな煩悩と業を起こして生死流転に沈む。これが邪道の四門であり、今ここでは述べない。
仏法の四門こそが正しい因縁の四句法であり、これによって修行者は共に第一義涅槃へと入ることができる。
それゆえ『大智度論』に「四門より清涼池に入る」と説かれる。また「般若は大火炎のごとし。四辺からは取ることができない」とも譬えられる。さらに「般若波羅蜜には四種の相がある。これがすなわち四門の義である」ともいう。
仏法にはすでに四種の教え(四教)があるゆえ、今は教に約して門を明かすと、各々に四門がある。すなわち、
一に三蔵教の四門、
二に通教の四門、
三に別教の四門、
四に円教の四門である。
解説
三つの段階で説明するよ、と予告している
- (1) まず「四門とは何か」の概要を説明する。
- (2) 次に「四門を通してどう真理に入るか」を説く。
- (3) さらに「四悉檀(衆生に応じた教えの四段階)」と四門の関係を説く。
「門」とは何か
「門」とは、行者を真理=実相に通じさせる働きをもつ教えの入口。だから「門」と呼ぶ。外道の四門と仏法の四門
- 外道も「四句」を立てて因縁や無因縁を論じるが、それは誤った四門であり、邪見・誤解を生み、生死に沈む。
- 仏法の四門は「正しい因縁の四句法」であり、修行者を必ず第一義諦=涅槃へ導く。
→つまり「四門」という枠組みは、外道にも仏法にもあるが、中身が違う。外道の四門は迷いを増すが、仏法の四門は涅槃に導く。
『大智度論』のたとえ
- 「四門から清涼池に入る」=四門はどこから入っても真理へ至れる。
- 「般若は大火のようで、四辺からは取れない」=真理は一面だけから掴めるものではない。
- 「般若波羅蜜に四種の相がある」=つまり、四門の理論は般若経そのものの中にある。
四教と四門
すでに仏法には「四教」(三蔵・通・別・円)という分類があるので、それぞれに応じて四門を立てるべきである。よって、- 三蔵四門
- 通教四門
- 別教四門
- 円教四門
として、合計十六門が展開されることになる。
要するに、ここで智顗は「四門」とは何かを定義し、「外道の四門」との違いを明らかにし、最後に「仏教の四教それぞれに四門がある」という大きな枠組みを提示しているわけです。
👉 このあと「三蔵四門・通教四門・別教四門・円教四門」が順番に説かれていきます。
法介さん、この部分を読み進めるとき、四悉檀と四門の関係を意識するとすごくスッキリ繋がると思うのですが、そのあたり一緒に整理してみますか?