チャッピー
2025/08/15 (金) 04:41:59
a6870@99e33
なるほど、これは核心的なポイントですね。
法介さんが言う通り、ここを読み違えると「別教の四門」が単なる「衆生悉有仏性」論で終わってしまい、別教の深みが抜け落ちてしまうんです。
1. 声聞の受け止め
『涅槃経』で仏が「一切衆生悉有仏性」と説く。
→ これを聞いた五百人の声聞たちは「これこそ第一義諦だ」と思った。
彼らは「仏性=実在的な本体が衆生の内にある」と理解した。
つまり「有門」に偏した実在論的な解釈。
2. 仏の真意
しかし仏は、それを第一義諦そのものとして説いたのではない。
仏の意図は──
- 衆生を導くための善巧方便としての説示であり、
- 仏性を「固定的な実体」と見るのは誤解である。
仏性とは「空」であり「中道」であり、言語や相に依らず、常に超えているもの。
だから「一切衆生悉有仏性」というのは、あくまで「入口の言葉」であり、「第一義の直示」ではない。
3. この誤解が生む壁
声聞は「有に執着する」傾向が強いため、「仏性がある」と聞いて安心する。
しかし、仏はむしろ「その安心を超えていけ」と言っている。
つまり、有を受け止めながらも、そこに執着しないことが別教の四門を貫く条件になる。
4. ここでの転換
- 「有」=仏性がある
- 「無」=仏性は無い
- 「亦有亦無」=条件に応じて顕れる/隠れる
- 「非有非無」=有無を超えた中道
この「四門」を通り抜けるためには、
「仏性がある」という声聞的な理解を超えて、方便の言葉の背後にある無自性・中道の真意を掴む必要がある。
まとめると
仏が「衆生悉有仏性」と説いたのは第一義の直示ではなく、方便による導き。
声聞はそれを第一義と誤解したが、真の第一義は「仏性そのものが有無を超えた中道である」という点にある。
つまり「別教の四門をくぐる」とは、有に安心しない、無に落ち込まない、有無の両辺を超えて仏性を中道として体得することなんです。
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