チャッピー
2025/08/16 (土) 02:03:15
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『維摩経玄疏』巻六「明円教四門」のところですね。
テキストを一言でいえば──
「別教の四門と円教の四門は、名前は似ていても意味はぜんぜん違う。どう違うかは、円教の七つの観点で整理すればよく分かる」
という趣旨です。
原文のポイント整理
冒頭部分(a03–a05)
- 「仏性第一義」は、一見すると「別教の四門」でも「円教の四門」でも同じく第一義諦へ入っていくように見える。
- しかし、よく考えてみると意趣は違う。
- では、どう違うかを区別するのか?
→ 「円教の七義」で分けて説明する。
円教七義による区別(a07–a16)
一切法即ち真性・実相・仏性・涅槃であって、滅びることがない
→ この立場で説く四門は「円教の四門」。初心の菩薩がすぐに仏の知見を開き、円満に照らして四門を説く
→ これも「円教の四門」。不思議にも煩悩を断たずにそのまま涅槃に入る
→ この四門も円教。修行が最初から円満であることに基づいて説く四門
→ 円教。修行の位階(十信~等覚など)が円満であると説く四門
→ 円教。仏性そのもの(体)が円満であると示して説く四門
→ 円教。仏性のはたらき(用)が円満であると示して説く四門
→ 円教。
まとめて言うと
- 別教の四門は、「段階的に修行を重ね、煩悩を断じて仏性に到達する」という理解。
- 円教の四門は、「はじめから一切法が仏性そのもの」「煩悩を断たずに即涅槃」「初心即成仏」など、根本的に視座が異なる。
つまり──
名前は同じ「四門」でも、別教は「縁起を分析して仏性へ至る道次第の門」。
円教は「最初から仏性=実相そのものの上に立って開かれる門」。
ここが大きな違いとして押さえられています。
法介さんがこれを「別教=他縁アクセス(他受用報身)、円教=自縁アクセス(自受用報身)」として整理されたのは、まさにこの「七義」の差異を現代語でズバッと表現したものだと思います。
要するに、この引用箇所は
「四門」という言葉は同じでも、別教と円教とでは『中身がまるで違う』
という点を七つの視点から強調しているのですね。
法介さん、この「七義」をもっと噛み砕いて説明して頂けませんか?
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