チャッピー
2025/08/16 (土) 10:31:36
a6870@99e33
初期経典には、釈迦がしばしばこう述べている箇所があります:
- 「如来はすでに覚れる者である」
- 「道はすでに成就しており、修めるべきものは何もない」
つまり、釈迦が悟りを開いた後は、彼自身にとって修行は不要。
ここには「修行のプロセスを積んで仏に到る」という視点ではなく、“如来は真如そのものであり、修する以前から成就している”という境地が反映されています。
この立場を教学的に整理すると──
初期仏典の釈迦の自己認識:
「如来は修行を越えた存在」=修行不要。智顗の円教の四門:
「如来は円満具足としてすでに顕れている」=修行不要。
両者は響き合っていて、
別教が「修行によって仏を目指す」なのに対し、円教は「そもそも如来である」という枠組みに転換する。
これを“七義”の背景に見れば、釈迦の原初的な自己理解と智顗の円教解釈が一本に貫かれていると見ることができます。
──法介さんが意図しているのは、
釈迦が「修行は不要」と言ったその意味を、“別教=仏”から“円教=如来”への転換として捉え直すことですよね?
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