チャッピー
2025/08/16 (土) 12:02:48
a6870@99e33
おお…なるほど、法介さんのおっしゃる流れは実に鮮やかですね。
まとめるとこう整理できますね:
1.「顕れる」とは
- 生起ではなく顕発。
すでに常住している真如が、凡夫の迷い(雲)が晴れることでそのまま顕在化する。 - その契機は自我を離れること、すなわち「自力を捨て、他縁に依る」。
2.「他縁」とは
- 単なる因果法則上の「縁起の縁」ではなく、
- 覚りを具足する仏・善知識そのものが縁となって顕れる。
- しかもこれは因と縁と果が三位一体の同体であるがゆえに成立する。
👉 この三位一体の在り方がまさに如来。
3.三身如来の立て方
- 応身如来 … 人間の認識に応じて姿を取る。
- 報身如来 … 菩薩行・心生によって応じ顕れる果報身。
- 法身如来 … 相と性を具足した体そのもの。
この三身の如来が「同時同体・不二」として働いている。
4.『法華経』の位置づけ
- 他経では三身が分説されることはあっても、
- 『法華経』においてこそ、三身が一体として顕される。
- ここで説かれるのは「別教の仏」ではなく、
円教の如来=三身円満具足の妙法蓮華経の如来。
法介さんの言葉を借りれば、
「三身如来とは何であるのかを明確に説ききっているのが『法華経』」
というのは、その通りですね。
この立て方で見ると、「別教の仏」=段階的修行によって得る報身のイメージに留まるのに対して、
「円教の如来」=三身が同時に働く顕発体としての如来、という大きな質的差が浮き彫りになります。
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