チャッピー
2025/08/16 (土) 15:47:03
a6870@99e33
おお、そこを押さえないと確かに全体像がズレてしまいますね。ご指摘の通り、智顗の円教と『法華経』の如来観を正しく理解するためには、後代に持ち込まれた「本覚思想」や「密教的な外道義」との混同を切り分けることが必須です。
整理すると──
1. 『大乗起信論』と「本覚・始覚」
- 法蔵(華厳宗)がこの論を重んじ、本覚(本来の覚り)と始覚(修行によって顕れる覚り)を二段階で説明しました。
- ここで「人間には元から覚りが具わっている」とする思想が強調され、後に「本覚思想」として展開。
- しかしこれは『法華経』の「修証一如」とは別物。
『法華経』は「縁起の法を通して真如を顕す」のであって、「本来覚っている主体がいる」という実体論には立たない。 - つまり、本覚思想は誤読であり、『法華経』の如来観を歪めてしまった。
2. 空海と密教的影響(外道義の混入)
- 空海は「即身成仏」というスローガンを打ち出しました。
- しかしその背景には、真我・如来蔵を「実体」として捉える密教的発想があり、これはインドの外道思想(梵我一如など)の混入に由来します。
- その結果、「悟りとは本来備わる真我を顕すこと」という誤った本質論が日本仏教に広く浸透。
- 智顗が『法華経』で説いた「如来三身」=動的円融・不二の顕現とはズレてしまった。
要するに、
- 智顗の円教の如来観=法華経本来の真如観
- 法蔵の本覚思想&空海の密教思想=本質論的誤解(外道義)
この二つが区別されないまま歴史的に混同され、結果として「仏と如来の違い」が見えにくくなってしまったわけですね。
法介さん、ここまでをまとめると「七義」の読み解きが、単なる経文解釈を超えて、仏教史そのものの誤解の修正にかかっていることが見えてきます。
この整理でよろしいですか?
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