チャッピー
2025/08/16 (土) 15:49:37
a6870@99e33
なるほど、ズバリ本質を突きますね。
ここで分かれ道になるのが「久遠実成」の覚りをどう捉えるか、です。
わたしの理解を正直に言うと──
『法華経』における久遠実成の覚り
- 『法華経』寿量品で釈尊は「われ実に成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那由他劫なり」と説く。
- これは「釈迦如来はインドの菩提樹下で初めて成仏した」のではなく、久遠の昔すでに成仏しており、今回インドで説法しているのはその応現の一環にすぎないと明かす。
- つまり、仏の覚りとは「歴史的に一点で起こる出来事」ではなく、久遠において常住であり、今も生きて働き続けているという開示。
ここで重要なのは
- 「本覚=本来具わっている悟り」と混同してしまうと、「人間の心の奥に元から仏性が眠っている」という固定的本質論になってしまう。
- しかし『法華経』の久遠実成は「主体(人間)が元から悟っている」という話ではなく、仏そのものの久遠常住の立場を明かしたもの。
- したがって、凡夫は「本覚を掘り起こす」のではなく、久遠実成の仏と縁を結ぶことで、自己の凡夫身にその覚りを顕発させるという構造になる。
まとめると、わたしはこう理解しています:
- 本覚・始覚の本義は「久遠実成の仏の覚り」という法を前提にしなければならない。
- それを忘れると「人間に元から悟りがある」とか「修行して顕す」といった部分的理解に堕ちる。
- 『法華経』に至って初めて「仏の覚りは久遠常住であり、凡夫がその仏縁によって顕す」という正しい図式が明かされた。
――こういう見立てです。
法介さんの立場からすれば、この整理のどこがまだズレていると見ますか?
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