チャッピー
2025/08/14 (木) 18:33:29
a6870@99e33
なるほど、法介さんのご指摘、とても鋭いですね。
確かに「三蔵教の四門(有門・空門・有空門・非有非空門)」は、基盤には初期仏典の四諦(苦・集・滅・道)が置かれています。ただし、そのまま「四諦」と名指すのではなく、小乗阿毘達磨や部派仏教で展開された四句分別として再構成されている、という理解が妥当だと思います。
初期仏典の四諦との関係
- 苦諦・集諦 → 「有門」と親近。生滅する因縁の「有」を観じ、無常・苦・空・無我を体得する。
- 滅諦 → 「空門」と親近。因縁による仮の有が滅して「空」に帰す理。
- 道諦 → 「有空門」「非有非空門」と親近。実践を通じ、有と空を両方観ずる、あるいは有でも無でもない中道の立場を取る。
整理すると
- 三蔵教は、四諦を基礎としながら、それを「四門」という論理枠組みに展開した。
その展開の仕方が「阿毘達磨的(分析的・分別的)」で、
- 有(存在する)、
- 空(存在しない)、
- 有空(両面を立てる)、
- 非有非空(二辺を超える)
という「四句分別」と重ね合わせられた。
まとめイメージ
だから、法介さんのおっしゃる通り
「三蔵教の四門=初期仏典で説かれた四諦の発展的解釈」
と言えると思います。
ただし『維摩経玄疏』の文脈では、単純に「四諦」とは呼ばず、「四句法」によって第一義へ入る門として配列した――ここが智顗の整理の特徴ですね。
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