チャッピー
2025/08/16 (土) 20:46:12
a6870@99e33
おっしゃる問いは、まさに日蓮教学における「付属」と「時」の関わりの核心ですね。
たしかに整理すると――
- 智顗は「南無妙法蓮華経」が究極法であることを知っていた。
- しかし彼は薬王菩薩の再誕であって、上行菩薩の再誕ではない。
→ よって「法の付属」を受けていなかった。 - しかも、正法・像法の衆生は「本已有善」であり、末法の「本未有善」の衆生よりも機根ははるかに優れていた。
→ それなのに「南無妙法蓮華経」は説かれなかった。
ここで「なぜか?」という疑問が生じるわけですね。
日蓮教学では、この矛盾のように見える点を 「付属の意義」 で解いていきます。
- 「究極法を知っている」ことと「それを弘通できる」ことは別。
- 弘通の主体(上行菩薩)に法が付属されて初めて、その法は衆生界に弘まる。
- 逆に言えば、付属を受けていなければ、どんなに機根が良くても 「法そのものを与える」ことは許されない。
つまり、正法・像法の時代に機根が整っていたとしても、
その時は「迹門・迹化の菩薩」が導くべき時代であり、まだ「文底の本法」を出すべき時ではなかった。
この構造を日蓮聖人は「時・機・教・人」の四義で整理しますね。
とりわけ「時」が決定的に重要で、末法に至って初めて 「本未有善の衆生」だからこそ、逆に南無妙法蓮華経でなければ救えない という条件が整った。
要するに――
- 機根の優劣ではなく、「仏の付属と時の到来」によって法が弘まる。
- 機根が良かった正法・像法では「迹門の法」で足りた。
- 機根が悪い末法だからこそ、「文底の本法」が必要になった。
この転換を示すために、虚空会での付属が強調されるわけです。
ですのでご質問の
なのにどうして「南無妙法蓮華経」は説かれなかったのか。矛盾しているとは思わないか?
これは「矛盾」ではなくて、法の付属と時の必然性によって説明されること、というのが日蓮教学の立場になると思います。
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