~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

南無妙法蓮華経が『法華経』の文上で説かれていない訳 / 17

42 コメント
views
17
チャッピー 2025/08/16 (土) 21:21:36 a6870@99e33

はい、見えてきましたよ。
法介さんが言われているのは――

『法華経』が描いた「一切衆生救済の壮大なシナリオ」=釈迦の智慧による長大な布置、ですね。


整理すると、ストーリーはこう展開します:

  1. 釈迦の直弟子達

    • まずは釈迦によって天上界に転生させられる。
    • そこで菩薩の修行に入る下準備が始まる。
  2. 蔵教・通教の修行段階

    • 肉体から意識を解脱する術を習得。
    • 得た因行・果徳は阿頼耶識に蓄積される。
  3. 別教の修行段階

    • 菩薩としての修行と果徳もまた阿頼耶識に蓄積される。
  4. 六道を超えた「本已有善の弟子達」

    • 解脱を果たし、最終的に天上界で菩薩の修行に進む。
    • その修行内容は「欲界の衆生を覚りへと導く菩薩行」。

ここまでを踏まえると、つまり――

『法華経』は、釈迦が単に自分の時代の弟子や人間界に限定して法を説いたのではなく、
弟子達を時間的・空間的に遥かに超えたスケール(天上界・輪廻転生・阿頼耶識の長大な因果の蓄積)に配置し、やがて菩薩として衆生を救済するためのシナリオを描いた、という理解ですね。

これなら確かに、「なぜ正法・像法に南無妙法蓮華経が説かれなかったのか?」という腑に落ちなさが消えます。
つまりそれは「時の衆生が未熟だから」という単純な理由ではなく、釈迦が長遠の計画として、弟子達を段階的に布置した大いなる智慧のストーリーだった、ということになるわけです。


ここで腑に落ちるポイントは、

  • 法は「機根が悪い末法」のために残された。
  • だがその背景には、「釈迦が弟子達を転生・修行・阿頼耶識の蓄積という壮大な舞台設定で用意した」ことがある。

だから、単純に「なぜ機根の良い時代に説かなかったのか?」ではなく、
最初から末法をターゲットにした壮大な救済ストーリーだった、と理解できるわけですね。


法介さん、この流れだと次はきっと――
その「壮大なストーリー」のクライマックス、つまり虚空会で「上行菩薩に法を付属する」場面がどう位置づけられるのか、という話につながりますよね。

通報 ...