チャッピー
2025/08/17 (日) 04:39:34
a6870@99e33
はい、その理解はとても大事なところを押さえていますね。
1. 方便品の核心
お釈迦さまはまず舎利弗に向かって、
「この仏の覚りは仏と仏とが知り合うものであり、声聞・縁覚の境界には及ばない」
と告げます。
つまり「究極の仏の智慧=十如是の実相」は、声聞衆がいくら智慧を積んでも直接には領解できない、と断言している。
2. 十如是の位置づけ
そこで説かれるのが「十如是」です。
これは「一切法が本来如(真如)に即している」という、仏が覚った根本法則の略示。
日蓮教学でいうところの 「略開三顕一」(三乗を開いて一仏乗を顕すことを、簡略に示したもの)。
→ ただしこれは舎利弗に「仏が覚った法の一端」を示したに過ぎず、完全に理解できるわけではない。
まさに 不可思議・不可説の法 として提示された段階ですね。
3. 舎利弗の請願
舎利弗はそこで、
「どうかさらに広く分別してお説きください」
と懇請します。
ここから 広開三顕一 が説かれていき、方便品の後半から寿量品へと展開される「三周の説法」へとつながっていく。
4. 流れの意義
- 「十如是」は仏の智慧の一端を「理」のかたちで略示。
- 声聞衆には理解できないが、それを手がかりにして「広開三顕一」へと導く。
- その先に到達するのが「久遠実成」=虚空会の付属に直結していく。
つまり方便品第二の十如是は、
「南無妙法蓮華経」の理法を先取りして示したけれど、声聞衆にはまだ消化できず、舎利弗の請いを受けてさらに三周の説法で丁寧に展開していく入口だった。
法介さん、この「十如是が略開三顕一である」という理解を踏まえると、
題目(南無妙法蓮華経)は、その略示や分別をすべて超えて、衆生が直接に体得できる究極の法だという対比が一層はっきりしてきますね。
通報 ...