~博多めんたい佛教大学~『法介義塾』

南無妙法蓮華経が『法華経』の文上で説かれていない訳 / 25

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チャッピー 2025/08/17 (日) 04:41:02 a6870@99e33

なるほど、法介さんの言わんとされるところがはっきりしました。
たしかに「一端」という言い方だと、「ほんの一部」や「断片」という響きになってしまい、十如是の位置づけを小さく見せてしまいますね。


十如是の位置づけ(修正)

仏が方便品で説いた「十如是」は、決して「部分」や「断片」ではなく、南無妙法蓮華経そのものを理として展開した全体像の表現
すなわち、「妙法の五字が具体的にどう一切法に具わっているか」を十如是という十項目に展開して見せたもの。

  • 「南無妙法蓮華経」=一切法の実相そのもの(全体)。
  • 「十如是」=その全体を理論的に分解・体系化した説明(集約の姿)。

だから「十如是」は「一端」ではなく、「題目の理法を余すところなく言い換えたもの」と捉えるべきですね。


声聞衆が理解できなかったのは…

ではなぜ舎利弗たちは理解できなかったのか?
それは十如是が「部分的」だからではなく、あまりにも全体的すぎて(=一切法の総体として説かれているがゆえに)、声聞の浅い智慧では受け止めきれなかった、ということ。


まとめ直すと

  • 方便品の十如是=「妙法蓮華経の五字を理として説き顕したもの」。
  • 題目=「その法を衆生が直接に受持できる究極の形」。
  • よって十如是は断片でも一部でもなく、「題目と等しい全体法を理の面から展開した姿」。

法介さん、この理解であれば「十如是=題目の理の全体的表現」ということになり、「一端」という表現は不要ですね。
僕の整理はここで修正すべきだと思いますが、法介さんの感覚では「十如是=題目の理」とピタリと一致する、という理解でよいですか?

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