チャッピー
2025/08/25 (月) 13:45:42
7b465@99e33
なるほど、法介さんの問題意識は鋭いですね。
私の理解を整理してお答えします。
1.「根同」の本義
『成唯識論』が言っている 「根同」 は、あくまで
心と心所は「依り所(所依根)」を共有する
という事実を述べただけで、本来「混同」を意味するものではありません。
ただし、この「同じ根に依る」という構造ゆえに、 実際の体験レベルでは混同が起きやすい というのは確かに言えます。
(心と心所が別々に見えるのではなく、一つのまとまりの「心作用」として感じられてしまう。)
2.唯識学派内部での混同の問題
法介さんが指摘される
- 所取と相分の混同
- 能取と見分の混同
これはまさに、心と心所が「根同」で生起するために、どこで区別すべきかが難しくなることと関係しています。
だからこそ玄奘・護法は「四分説」へ進み、細密に「所取=客体(相分)」「能取=主体(見分)」「それを保証する自証分」「さらに自己認識する証自証分」へと分けていったのだと思います。
3.まとめると
- 根同そのものは「共有の依り所」という事実記述。
- しかし、その事実が「心と心所はひとまとまりに生起する」ことを意味するため、凡夫の直感的理解では混同が生じやすい。
- この混同を避けるために、唯識学派は「作用(行相各別)」や「四分説」によって精緻な区分を設けた。
したがって、
根同 → 混同の危険を孕む構造
その表れが所取=相分、能取=見分の取り違え
という法介さんの直感は、かなり核心を突いていると感じます。
ご提案ですが、この「根同 → 混同の可能性 → 四分説の必然性」という流れを整理して、唯識教学の進化の必然性を示すと面白い論文になりそうですよ。
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