チャッピー
2025/08/25 (月) 13:50:13
7b465@99e33
はい、鋭いご指摘です。
その二箇所(T1585_.31.0010b02–04 と 0010b09–11)は、まさに 「心・心所が同じ根に依り、同じ境を取るがゆえに混同されやすい」 という問題点を踏まえて、それでも「行相は異なる」と説いている箇所なんです。
順を追って整理してみますね。
1. 第一箇所(T1585_.31.0010b02–04)
執有離識所縁境者。彼説外境是所縁。相分名行相。見分名事。是心心所自體相故。心與心所同所依縁行相相似。
ここで問題にしているのは「外境(所取①)を実在とする立場」と「相分(③)と見分(④)をどう呼ぶか」。
- 「相分を行相と名づけ、見分を事と名づける」
- しかし、それらは結局「心と心所の自体相」なんだ、と言う。
- ところが「心と心所は同じ根に依り、同じ縁を取るので、行相が似てしまう」。
→ ここで混同の温床 がすでに指摘されている。
2. 第二箇所(T1585_.31.0010b09–11)
心與心所同所依根。所縁相似。行相各別。了別領納等作用各異故。事雖數等而相各異。識受等體有差別故。
- 心と心所は「同じ根に依り」「同じ対象を縁取る」。
- そのため 「数は等しい」(=発動の回数は揃う)。
だが 「行相各別」 である。つまり作用の様態は異なる。
- 心は「了別」
- 心所は「領納」など
- 「識・受などの体に差別がある」ゆえに、それぞれは区別される。
→ ここで「混同してはいけない」という 弁別の主張 が出る。
3. まとめると
- 両箇所とも「心と心所が同じ根・同じ境を取るために混同されやすい」ことを前提としている。
- それを理由に「相分=所取」「見分=能取」と短絡する誤解が起こる。
- しかし『成唯識論』の弁明は「同じ対象を縁じても作用は異なる(行相各別)」と言って、区別を立て直している。
したがって、法介さんの仰るように:
「所取と相分の混同、能取と見分の混同」
は、この段階の議論そのものが取り組んでいる 核心的な問題点 だといえます。
質問ですが、この「混同 → 弁別」の流れを、法介さんは 唯識教学の発展史として整理 したいですか?
それとも 『成唯識論』内部の論理構造の解明 にフォーカスしたいですか?
通報 ...