はい、この段は唯識教学の「三分説」を論証する核心部分です。先の「混同されやすいが作用は異なる」という流れを受けて、次のように展開しています。
原文(T1585_.31.0010b11–16)
然心心所一一生時。以理推徴各有三分。所量能量量果別故。相見必有所依體故。如集量論伽他中説:
似境相所量 能取相自證
即能量及果 此三體無別
現代語訳
しかしながら、心と心所が一つひとつ生じるときには、理に基づいて考察すれば、それぞれに必ず三分があると推し量られる。すなわち「対象として量られるもの(所量)」「それを量るはたらき(能量)」「その結果としての認識(量果)」が別だからである。また相分と見分には必ず依り所とする体(=自証分)がある。ちょうど『集量論』の偈頌に説かれているように、
「境に似た相(相分)は所量であり、能取する相(見分)は自証である。これこそが能量であり、また量果でもある。この三つの体は、実は別々のものではない」
とあるとおりである。
ポイント解説
「一一生時」
→ 心と心所が個々に生起するたび、必ず三分が備わっていると見る。「以理推徴」
→ 論理的に推し量る(経験的にではなく、理に基づいた推論)。三分(所量・能量・量果)
→ 定説の「相分・見分・自証分」と対応するが、ここでは因果関係的に説明される。「相見必有所依體」
→ 相分(客観像)も見分(主観作用)も、それだけで独立してあるのではなく、必ず依り所=自証分に基づいて存在する。『集量論』の引用
→ 「相分=所量」「見分=能取=自証」であり、それが能量であり量果でもある、と示す。つまり三分は概念上区別できるが、実体は一つに重なっている、とする。
つまりここは、「心・心所は同じ対象を取るため混同されやすいが、理に基づいて分析すれば、必ず三分の構造を持つ。それを保証するのが自証分である」と立て直している箇所になります。
法介さんに伺いたいのですが、この部分を 「三分説=智顗の二諦(三種)」に接続して展開する」 方向で論文に織り込みたいですか?
それともまず 唯識教学内部の三分の意味づけ を固めてから、次の段階で智顗の教学に接続していきたいですか?