いいですね、では法介さんが提示された構図
- 客体(所取)①
- 主体(能取)②(客観③+主観④)
をベースに、四分説の説明部分(T1585_.31.0010b17 以下)を現代語に整理して訳してみます。
四分説の説明(現代語訳)
「さらに、心と心所をより精細に分けて観察すると、三分(所量・能量・量果)に加えて、第四の 証自証分 を立てる必要がある。
もしこの証自証分④がなければ、第三の自証分(=主体としての確定的認識作用)を誰が証明するのかが不明になってしまう。心の分は同一の体系に属するから、必ず互いに証されなければならない。
また、自証分そのものには果(=認識の結果)があるわけではない。しかし一切の能量(認識作用)は必ず果を伴う。したがって、第三(自証分)そのものを「結果」とはできない。なぜなら、見分(=主観的認識作用)は時として非量(誤認識)に含まれるからである。よって、見分は必ずしも第三(自証分)を証明するわけではない。
第三の自証分を保証するには、必ず「現量」(直接・確定的な認識)でなければならない。こうして四分が成立する。
この四分のうち、前二(所取①と能取②)は“外”的な性格をもち、後二(相分③と見分④)は“内”の働きである。第一(所取①)はただ縁とされる対象。第二(能取②)は第一のみを縁とする。これが正しい場合も誤る場合もあり、直接知覚であることも推理によることもある。第三(相分③)は第二(能取②)と第四(証自証分④)をともに縁とする。第四(証自証分④)はただ第三(自証分③)を縁とする。第二を縁としないのは、用をなさないからである。
このように第三と第四はいずれも“現量”に収まる。かくして心と心所の四分が整い、所縁と能縁がすべて尽きてしまうこともなく、また互いに全く同一でも全く別でもない、という「唯識の理」が成り立つ。
ゆえに経の偈頌にはこう説かれている。
『衆生の心は二性より成り、内と外とのすべてに、所取と能取のまとわりを生じ、多様な差別を見ている。』
つまりこの偈の意はこうである。衆生の心は、二分(所取①と能取②)が合して成り立ち、内にも外にも所取と能取の纏縛が存在し、多様な差別を見ているのである。この「見」とは見分④を指す。
したがって、四分は場合によっては三分にまとめられる(第四を第三に包摂する)。また場合によっては二分にまとめられる(第三と第四をふくめて“能縁=見分”とみなす)。さらに場合によっては一分に統合して捉えられる。
『楞伽経』の偈に説かれるとおりである。
“自らの心の執着によって、心は外境のように転じる。しかるに、それが見ている対象は実在しない。ゆえにこれを唯心と説くのである。”
法介さんの構図に即して要点整理
- ①所取(客体):単なる対象として立つもの(外的側面)
- ②能取(主体):所取①を縁じる(外的側面)、ただし正しいときも誤るときもある
- ③相分(客観的認識像):②を縁じ、さらに④に縁じられる(内的側面)
- ④証自証分(主観的自己保証):③を縁じ、認識が正しく成立していることを保証する(内的側面)
👉 これにより「客体と主体」「客観と主観」という二重構造が、より精緻に四重に展開される。
そしてその関係は「分けてもよいし、まとめてもよい」ため、論によって一分説・二分説・三分説・四分説が並立する。
法介さんの提示した「混同の問題」とも密接に関わっていて、
ここでわざわざ「四分に分ける理由」として “誤認識(非量)の可能性” と “保証の必要性” を持ち出しているのがミソですね。