了解しました。
では流れとしては――
定説の誤りの指摘
- 「一分説・二分説・三分説=(相分のみ/見分+相分/見分+相分+自証分)」という近世以降の定説がある。
- しかし『成唯識論』原文に即してみると、ここでいう「三分」とは 所量・能量・量果 であり、必ずしも「見分・相分・自証分」を意味しない。
- この混同が現代の唯識解釈の混乱を生んでいる。
『成唯識論』の本文再読
- 「心與心所同所依根…然心心所一一生時。以理推徴各有三分。所量能量量果別故」
- ここで明示される三分は「所量(対象)・能量(認識作用)・量果(結果)」であり、相分・見分・自証分を直接指してはいない。
これを智顗の「理外二諦」の三種と比較
- 随情二諦(方便的二諦)=一分説(外境実在)
- 情智二諦(凡夫は世諦・聖者は真諦)=二分説(見分+相分、色即是空)
- 随智二諦(聖者の直観する二諦)=三分説(自証分=法空)
- つまり智顗は『唯識三十頌』の層を自派の二諦論の枠組で再配当し、龍樹教学と世親唯識を架橋していると見られる。
結論
- 一般的定説は「三分説=見分・相分・自証分」という後世的単純化に過ぎない。
- 『成唯識論』本文の「三分説」は本来、認識論的三分(所量・能量・量果)を意味していた。
- これを智顗は「二諦三種」と重ね合わせ、法空思想の展開として読み替えている。
- したがって「一分・二分・三分説」は唯識教学内部の体系区分ではなく、**大乗教学の発展史的文脈(部派実在論 → 二諦論 → 法空論)**として捉えるべきである。
論文風に起こすと、こんな形になります。
論文風草稿
一 序論
世親の『唯識三十頌』および玄奘訳『成唯識論』において論じられる「一分説・二分説・三分説」は、近世以降の注釈史の中で「相分のみ/相見二分/相見自証三分」という理解に固定化されてきた。しかし原典を精査するならば、ここに説かれる「三分」とは必ずしも見分・相分・自証分を直接指すものではなく、「所量・能量・量果」の三分であることが明瞭である。本稿では、従来定説の誤りを正し、あわせて智顗がこの唯識的三分説をいかに解釈したかを検討する。
二 『成唯識論』本文の検討
『成唯識論』には次のような記述が見える。
然心心所一一生時。以理推徴各有三分。所量能量量果別故。
ここに説かれる三分とは、すなわち「所量(対象として量られるもの)」「能量(対象を量る働き)」「量果(その認識の結果)」である。したがって、後代のように「見分・相分・自証分」を指して三分説と解するのは本文に即していない。
三 従来定説の誤謬
近代以降の唯識解釈では、一分説を「相分のみ」、二分説を「相見二分」、三分説を「相見自証三分」と定義する例が広く見られる。しかしこれは唯識教学を単線的発展史として単純化したものであり、本文の意図を反映していない。むしろ三分説は認識の作用を分析するものであって、見相自証の区別を直截に説くものではない。
四 智顗の解釈との連関
智顗は『維摩経玄疏』において「理外二諦」を三種に分けて論じた。すなわち、随情二諦・情智二諦・随智二諦である。これを唯識の一分・二分・三分説と対応させるならば、以下のように整理できる。
- 随情二諦=一分説(外境実在説、蔵教的)
- 情智二諦=二分説(見分と相分による二諦、般若的)
- 随智二諦=三分説(自証分をも含む法空、唯識的)
この対照から見れば、智顗は世親唯識を二諦論の延長に位置づけ、龍樹の法空思想との橋渡しを図ったことが分かる。
五 結論
以上の検討により、いわゆる「一分・二分・三分説」についての定説は本文に根拠を欠き、誤解に基づくものであることが明らかとなる。『成唯識論』の三分説は本来、所量・能量・量果の三分を指しており、見相自証の区分と混同してはならない。そして智顗はこの三分説を二諦論の文脈に重ね合わせ、唯識教学を法空思想へと包摂する解釈を提示した。ここに大乗教学における蔵教から般若・唯識を経て法華円教に至る発展の一環を見ることができる。
こんな枠組みでよければ、さらに肉付けして学術論文風に整えられますが、どうしましょう?まずは「定説の誤りを糺す」部分をもっと徹底的に批判的に膨らませますか?